29tachibana michiyuki

立花たちばな 道雪どうせつ

1513年~1585年

80

百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱

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年表

1513

大友義鑑の一門衆で豊後鎧ヶ岳城ながら家勢衰え豊後大分郡戸次の本貫地も失った戸次親家の嫡子に戸次鑑連(立花道雪)が出生

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1515

尼子経久が大内氏領に侵攻し石見西半を支配権に収め安芸にも勢力拡大

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1516

北条早雲が反旗を掲げた三浦義同征伐、扇谷上杉朝興の救援軍を撃退し、新井城の兵糧攻めで勝利、義同以下の相模三浦一族を滅ぼし相模全域を平定

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1516

[西の桶狭間・有田中井手の戦い]安芸吉田の国人(小領主)で郡山城主の毛利興元が急死し幼少の幸松丸が家督相続、安芸守護の武田元繁が「室町将軍の上意」を口実に毛利氏・吉川氏の領地に侵攻、興元の弟毛利元就が寡兵で撃退し武田元繁は討死

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1516

大内義興が室町幕府から日明貿易の恒久的管掌権限を獲得、横槍を入れた細川高国と不仲になり寧波の乱へ発展

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1518

尼子経久に領国を荒らされた大内義興軍が10年に及んだ京都滞在を終えて山口へ帰国、後ろ楯を失った将軍足利義稙・細川高国の政権基盤が揺らぎ、阿波で抵抗を続ける細川澄元・三好之長の陣営が盛り返す

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1518

桜井宗的が出雲磨石城にて反旗、尼子経久は武勇の嫡子尼子政久を征討に送るが一矢に射抜かれ戦死(経久は政久の死を悼み嫡子晴久を家督とする)、新宮党を率いる次男尼子国久が猛攻で出雲磨石城を落とし城兵悉くを斬殺

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1519

戦国大名の先駆け北条早雲が嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城にて死去(享年88)、早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれる

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1520

中央政局を掻き回した南近江守護の六角高頼が死去、次男定頼が家督相続

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1520

播磨・備前・美作守護の赤松義村が実権を奪った守護代浦上村宗(宗景の父)の備前三石城を攻撃するが宇喜多能家(直家の祖父)らの奮戦で撃退、幽閉された義村は翌年暗殺され赤松氏は没落し(村宗と敵対する浦上村国が8歳の嫡子赤松晴政を赤松氏当主に擁立)浦上氏の勢威が高まる

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1521

[等持院の戦い]大内義興軍が去った京都を細川澄元・三好之長が奪回、細川高国は近江へ逃れるが六角定頼の加勢を得て反撃、追い詰められた之長は京都百万遍で自害し(嫡子元長が後継)、阿波へ敗走した澄元も病没(嫡子晴元が後継)、高国は寝返った将軍足利義稙を追放し前将軍義澄の子足利義晴を12代将軍に擁立

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1521

尼子経久が浦上氏領に侵攻し備中と備前西半まで支配圏に収める

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1523

[鏡山城の戦い]尼子経久方の毛利元就率いる安芸国人衆が大内義興方の安芸西条鏡山城を攻略、尼子は安芸を支配圏に収め毛利は武名を上げるが、恩賞を巡り両者の関係が悪化

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1523

毛利家当主幸松丸が急死(謀殺説あり)、叔父の毛利元就が尼子経久の介入を退け弟の就勝(元綱説あり)一派を殺害して毛利家の家督と吉田郡山城を承継、嫡子毛利隆元誕生

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1523

[寧波の乱]明の貿易港寧波で細川高国と大内義興の使者が争う

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1523

備前三石城の浦上村宗が播磨へ出兵し赤松晴政(村宗が暗殺した義村の遺児)を播磨・備前・美作守護に擁立した浦上村国・御着城主小寺則職を攻撃、浦上軍指揮官の宇喜多能家は次男四郎の戦死に逆上し敵陣に突撃奮戦して決定的勝利を挙げ、晴政を確保し播磨・備前・美作を掌握した浦上氏は戦国大名へ発展

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1524

大内義興軍が安芸に侵攻、尼子経久方の武田光和(元繁の嫡子)が籠る銀山城を攻囲するが毛利元就が夜襲で撃退

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1524

[大永の五月崩れ]尼子経久が南条宗勝ら反抗勢力と守護山名澄之を追放し尼子晴久を守護に就けて伯耆を支配権に収める

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1525

独立を期す毛利元就が束縛の強い尼子経久を離反して統制の緩い大内義興に鞍替え(正式な手切れ通告は1534年の安芸守護武田氏滅亡後)

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1526

薩摩・大隅守護の島津勝久が薩州家島津実久の専横に圧迫され伊作家島津忠良(日新斎)の嫡子島津貴久に15代当主を譲って救助を求めるが、実久の反抗と勝久の寝返り遭って貴久は鹿児島清水城と守護職を奪われ、13年に及ぶ長期内戦に発展、日新斎・貴久は長期戦の構えをとり自領の防備を固めて土豪勢力の取込みを進める

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1526

大友義鑑が大内領の豊前馬ヶ岳城を攻略、13歳で初陣の戸次鑑連(立花道雪)は兵2千を率いて戦い勝利に貢献、間もなく戸次親家が死去し嫡子鑑連が家督相続

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1527

将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛し波多野・三好連合軍を掃討して京都を制圧するが、宗滴は高国との対立により翌年撤兵し細川晴元・三好元長が再び京都を奪回

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1527

[細沢山の戦い]大内と山名が反尼子で提携、尼子経久は備後に出陣するも陶興房(晴賢)率いる大内軍に敗北、国人衆は尼子から離脱し大内義興が安芸・備後を支配圏に収める

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1529

日明・朝鮮貿易を牛耳り周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前に君臨した大内氏絶頂期の当主大内義興が死去(享年52)、嫡子の大内義隆が家督を継ぐが京都を凌ぐ文化都市となった周防山口で遊芸に溺れ家運は傾く

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1530

尼子経久の三男で西出雲を治める塩冶興久が謀反、出雲を二分する大乱となるが、漁夫の利を狙う大内義隆は経久と和睦・支持、興久は敗北し備後に落ち延びるが4年後に自害、西出雲は経久の次男国久の支配地となる

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1530

豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に大友宗麟(義鎮)が出生

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1530

将軍足利義政により室町幕府御用絵師に抜擢され漢画の手法で慈照寺銀閣の障壁画や『周茂叔愛蓮図』『山水図』を描いた狩野正信が死去、幕府御用絵師を次いだ嫡子の狩野元信は職業画家集団「狩野派」を興し宮廷絵所預の大和絵土佐派(創始者の土佐光信は元信の舅とも)と日本画壇を二分する勢力へ躍進する

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1531

[大物崩れ]将軍足利義晴・管領細川高国の挙兵要請に応じた播磨・備前・美作の領袖浦上村宗が京都を奪回、摂津尼崎大物で細川晴元・三好元長軍と対峙し優位に戦局を進めるが村宗を恨む赤松晴政勢の寝返り奇襲により壊滅し村宗は討取られ(嫡子政宗が家督を継ぐが浦上氏は播磨・備前・美作の支配力を失い尼子経久の侵攻で西播磨に追詰められる)高国は尼崎の路傍の民家で自害、永正の錯乱から24年続いた細川政元の養子3人(澄之・澄元・高国)による家督争奪戦が決着するが(晴元は事実上の管領となったが何故か正式襲名せず)、細川晴元と三好元長の権力争いへ移行

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1532

[飯盛城の戦い~天文の錯乱・山科本願寺焼討]細川晴元の側近で播磨守護代の木沢長政が播磨守護畠山義堯に叛逆、三好元長・一秀が畠山に加勢し木沢を飯盛城に追い詰めるが、晴元の誘いに乗った山科本願寺証如・蓮淳が10万もの一向一揆勢を派遣、三好・畠山軍は撃滅され元長・一秀・義堯も討取られるが(切腹した元長は腸を天井に投げつけて壮絶死)、暴徒化した一向一揆勢は奈良を劫掠して京都へ侵入、本願寺と決別した晴元は近江守護六角定頼と法華一揆を動員して一向一揆を撃退、山科本願寺を焼かれた証如は摂津石山御坊(石山本願寺)へ逃避

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1533

伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始

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1533

尼子経久が大物崩れで戦死した浦上村宗の遺領に攻込み備前・美作を奪取、播磨は細川晴元が制圧し村宗の嫡子浦上政宗は西播磨に追詰められる

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1534

尾張那古野城主の織田信秀の嫡子に織田信長が出生

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1534

銀山城主武田光和が重臣熊谷信直との対陣中に急死し安芸守護武田氏は空中分解で断絶、熊谷・宍戸・山内・天野氏等を従え安芸国人の盟主となった毛利元就が正式に尼子経久に手切れを通告し大内義隆へ鞍替え(事実上の転籍は1525年頃)、大内家からの独立も企図する元就は尼子領の備後を襲って領土拡張に励む

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1534

肥後国人の菊池義武が大内義隆・相良晴広らと同盟して実兄の大友義鑑から独立するが攻められて相良氏へ亡命、戸次鑑連(立花道雪)は大友軍主力として活躍

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1536

周防の大内義隆(義興の嫡子)に攻められた肥前勢福寺城の少弐資元が降伏開城するが、和睦条件を反故にされ大宰大弐の官職と所領を奪われたうえ攻められて梶峰城で自害(嫡子冬尚は助命される)、義隆に通謀し主君を見捨てた龍造寺家兼は東肥前の戦国大名へ台頭

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1536

[天文法華の乱]延暦寺の僧兵約6万人が京都に押し寄せ日蓮宗寺院二十一本山を焼払い門徒を虐殺

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1537

尼子経久と大内氏との石見銀山争奪戦開始、尼子経久は家督を孫の尼子晴久に譲り隠居

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1537

豊臣秀吉が尾張国中村の下層民(焙烙売り・賤民とも)の家に出生(父は織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門とも伝わるが不詳、母なかは徳川家康の人質に出した大政所、弟秀長は優秀な副将、姉日秀の子は豊臣秀次、妹あさひは徳川家康に入輿)、20歳前後で織田信長に仕えるまでの事跡は不明(家出して悲惨な放浪生活を送り、武家奉公の最初は今川家臣松下之綱だったとされる)

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1538

[第一次国府台合戦]鎌倉から武蔵江戸城まで制圧した北条氏綱に対し、小弓公方足利義明が里見義堯・真里谷信応を誘って下総国府台城で挙兵、家柄と武勇を過信し江戸川渡河中の攻撃策を捨てた義明が嫡子義純・弟基頼もろとも討死、戦線離脱し兵力を温存した安房里見氏が漁夫の利を得て久留里城・大多喜城を落とし房総半島の大半を掌握

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1538

尼子晴久が播磨に侵攻、守護赤松晴政と浦上政宗を敗走させるが三木城主別所就治の抵抗に遭い、安芸戦線を毛利元就に脅かされたため出雲へ撤退

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1539

凡愚な島津勝久が国人衆に見放され再び島津実久と抗争を始めると、島津忠良(日新斎)・貴久父子は反攻を開始、加世田別府城・市来鶴丸城の戦いで実久を降伏させて鹿児島内城に入り、反抗した実久も追放(最後は大友氏を頼り豊後で客死)して島津宗家の家督と薩摩・大隅守護職を奪回、領国に割拠する土豪征伐に乗出す

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1540

龍造寺家兼・馬場頼周ら旧家臣団が少弐冬尚を当主に担ぎ名目上少弐家を再興

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1541

[吉田郡山城の戦い]毛利元就に安芸・備後の領地を切取られた尼子晴久が武田光和の遺児武田信実を担ぎ反攻、大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略(12歳の次男吉川元春が家臣の制止を振り切って初陣)と大内家陶隆房(晴賢)の援軍により撃退され尼子久幸(経久の弟)も戦死、武田信実は出雲に逃亡し安芸守護武田氏滅亡、元就は反抗勢力を皆殺にして安芸を制圧

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1541

流浪の身から最盛期には山陰・山陽11ヶ国に君臨した尼子経久が月山富田城にて病没(享年82)

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1542

徳川家康(竹千代)が西三河の土豪松平広忠の嫡子として出生(家祖の松平親氏は三河松平郷の庄屋家に婿入りした遊芸僧の徳阿弥、家康の祖父松平清康の代に西三河を制圧したが、清康急死で零落し織田信秀に圧迫された広忠は今川義元に臣従)

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1543

[月山富田城の戦い]大内義隆率いる大軍(毛利元就も従軍)が出雲に反攻し尼子晴久の月山富田城に攻込むが吉川興経らの寝返りと補給難により退陣、兵力十分ながら下手な退却戦指揮により被害甚大(備後竹原高山城主小早川正平も戦死)、尼子方が勢いを盛返し大内方から石見銀山も奪還

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1543

[鉄砲伝来]倭寇の頭目王直(五峯)の明船がポルトガル人を乗せて種子島に来航、領主の種子島恵時・時尭父子は火縄銃2挺を購入し刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製に成功、貿易商人を通じて忽ち畿内へ伝播し早くも同年中に和泉堺・紀州根来寺・近江国友などで鉄砲製造がスタート、鉄砲と硝石の調達・鉄砲鍛冶の獲得・鉄砲隊の調練は戦国大名の軍事戦略の要諦となる

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1544

尼子晴久勢が月山富田城の戦いで戦死した小早川正平の備後竹原高山城に侵攻するが毛利元就出陣により撤退、正平の嫡子又鶴丸が盲目のため毛利元就が三男又四郎を婿養子に送り込む(元服後に又鶴丸一派を粛清して家督を継ぎ小早川隆景を名乗る)

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1546

[河越夜戦(日本三大奇襲)]北条氏康と関東管領上杉憲政・上杉朝定・古河公方足利晴氏(氏康の妹婿)の連合軍が武蔵河越で決戦、圧倒的寡勢の北条軍は「地黄八幡」北条綱成の奇襲で完勝し、朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡・上野平井城に落延びた憲政の山内上杉家も没落・晴氏は幽閉され氏康が立てた傀儡の次男義氏(氏康娘婿)に古河公方職を奪われ、祖父早雲以来の悲願である打倒上杉氏を果した北条氏康は関東制覇を睨み越後長尾(上杉謙信)・常陸佐竹・安房里見と対峙

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1546

河越夜戦で関東管領山内上杉憲政に従った上野箕輪城主長野業正が北条氏康に敗れ嫡子吉業を喪うが「箕輪衆」を結束させ西上野の支配圏を堅持(上杉家臣の大胡氏・上泉伊勢守信綱らも長野氏に臣従)、業正は憲政を保護した越後の長尾景虎(上杉謙信)に臣従し北条氏康・武田晴信(信玄)と対峙

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1546

[舎利寺の戦い]細川晴元に反逆した将軍足利義晴・細川氏綱・細川政国・遊佐長教の反乱を三好長慶の阿波勢と六角定頼の近江勢が制圧、義晴は逃亡先の近江坂本で隠居し10歳の嫡子足利義輝に13代室町将軍を継がせる(2年後に義晴は晴元と和解して京都に戻り晴元は義輝の将軍就任を承諾する)

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1546

毛利元就が形式上隠居し嫡子毛利隆元を当主に据える、正妻妙玖(吉川家当主興経の叔母)死去

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1546

肥前の領袖有馬晴純を後ろ盾に付けた少弐一門の馬場頼周が大内氏への通謀を名分に肥前水ヶ江城の龍造寺家兼を急襲、龍造寺家純・家門の二児と孫4人を殺害されるも家兼は逃亡、筑後柳川城主蒲池鑑盛の力添えで肥前へ攻め戻り鍋島清房・千葉胤連を従えて頼周・政員父子を討滅、間もなく家兼は病没し宝琳寺に預けられていた曾孫の龍造寺隆信が還俗して家督を継ぎ水ヶ江城主となる

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1547

龍造寺隆信が主家の少弐冬尚を攻め勢福寺城から追放

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1548

連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成

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1549

[キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)

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1549

龍造寺本家当主の胤栄(龍造寺隆信の傀儡)が後嗣無く死去、隆信は大内義隆を後ろ盾に付けて反対派を抑え胤栄未亡人に入婿する形で龍造寺本家の家督を横領(このとき義隆の偏諱を受けて隆信を名乗る)

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1549

[江口の戦い~細川政権崩壊と三好政権発足]三好長慶が細川氏綱・遊佐長教と提携し一門のライバルで細川晴元側近の三好政長を襲撃し政長以下800人を討取る大勝、晴元と将軍足利義輝は六角定頼を頼って近江坂本へ逃亡、三好長慶は細川氏綱を管領に擁立して室町幕府の実権を掌握するが、以後9年も晴元・義輝との抗争は継続、三好家家宰の松永久秀は京都所司代の重職を与えられ40歳で歴史舞台に登場(摂津滝山城主・堺代官も兼務して富を築き三好家中第一の勢力家へ台頭)

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1550

[二階崩れの変]豊後・肥後・筑後守護の大友義鑑が長子義鎮の廃嫡を企て反対派の重臣を誅殺するが反撃に遭って擁立を企てた三男到明と共に討取られ(義鎮の陰謀疑惑が濃厚)、大友義鎮(宗麟)が戸次鑑連(立花道雪)の後見を得て家督相続、義鑑に加担した入田親誠は岳父の阿蘇惟豊を頼って肥後に逃れるが鑑連に攻められて自害に追込まれる

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1550

島津忠良(日新斎)が鹿児島内城から隠居所の加世田に転居

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1550

ポルトガル商船が肥前平戸へ来航し南蛮貿易がスタート、平戸領主松浦隆信と肥前の領袖有馬晴純(大村純忠の実父で有馬晴信の祖父)は貿易の利で勢力を伸ばすがキリスト教は禁断

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1550

毛利元就が大内義隆の協力を得て盲人の小早川又鶴丸(戦死した正平の嫡子)を出家に追込み田坂全慶ら反対派を大粛清して婿養子の三男小早川隆景が家督を承継(高山城主に納まった隆景は沼田川対岸に新高山城を築き転居)、竹原・沼田の両小早川家を乗取り安芸・備後沿岸部の支配を確立した元就は大内家からの独立を果たす

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1550

筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)が太平寺の戦いで三好長慶に討たれた木沢長政の残党を次々攻略し柳生家厳・宗厳父子ら国侍衆を降して大和を平定するが病を苦に比叡山へ出奔し死去、2歳の嫡子筒井順慶が後を継ぐが大和は再び国侍衆が割拠する情勢となり三好政権・松永久秀に支配圏を脅かされる(「元の木阿弥」の故事成句あり)

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1551

一代で尾張国の旗頭に成り上がった織田信秀が死去、うつけの悪評が高い嫡子織田信長が家督相続、主筋の清洲城主織田信友が反逆し柴田勝家・林秀貞ら宿老も織田信行(信長の同母弟)擁立を企て尾張は内戦状態となる

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1551

信濃中部まで制圧した武田晴信(信玄)が北信濃に再侵攻、大苦戦に陥るも真田幸隆が謀略で戸石城を攻略、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)に亡命、武田氏は甲斐・信濃二国を制圧

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1551

[大寧寺の変]周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前守護の大内義隆が権臣(元寵童)陶隆房(晴賢)の謀反により自害(嫡子義尊も討たれ戦国大名大内氏は事実上滅亡)、陶は大友義長(宗麟の弟で大内義隆の甥)を義隆の養子に迎えて名目上の当主に担ぎ大内家を簒奪、毛利元就は陶に属して安芸・備後を転戦、陶と同盟した大友義鎮(宗麟)は貿易都市博多を確保し戸次鑑連(立花道雪)が土豪を切従えて大内領の筑前・豊前の実権を掌握し龍造寺隆信ら肥前の大内勢力も一掃

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1551

後ろ盾の大内義隆を喪った龍造寺隆信に対し大友宗麟に通じ龍造寺鑑兼を担ぐ国人衆が反旗、肥前を追われた隆信は曽祖父家兼を援助した筑後柳川城主蒲池鑑盛を頼る

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1551

大友義鎮(宗麟)がフランシスコ=ザビエルを豊後府内に招聘、ザビエルは数千の信者を獲得し2か月滞在後にインドへ去るが(義鎮自身のキリスト教入信は30年後)、キリスト教は大友領内で繁栄し南蛮船・中国船の来航が数倍となって府内は殷賑を極め大友氏は貿易の利を占める

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1552

南近江守護六角定頼が死去(子の義賢が後継)し庇護者を失った細川晴元派は弱体化、近江朽木に籠る将軍足利義輝は三好長慶に帰順し京都へ帰還するが翌年晴元と共に反乱を起し再び近江朽木へ逃亡

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1553

大友義鎮(宗麟)が反逆した一萬田鑑相を誅殺、一萬田家を継いだ嫡子鑑実は義鎮に帰順

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1553

戸次鑑連(立花道雪)が異母弟戸次鑑方の長男鎮連を養子に迎え豊後鎧ヶ岳城を譲る

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1554

[甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)]武田晴信(信玄)・北条氏康・今川義元が相互に婚姻を結び同盟、三強連携体制で武田は信濃・北条は関東・今川は尾張の攻略に専念

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1554

島津貴久に降った大隅加治木城主肝付兼盛を蒲生範清・祁答院良重・入来院重朝ら大隅国人が攻撃するが、島津の援軍が岩剣城の決戦で大隅連合軍を撃滅、貴久の嫡子義久と次男義弘が初陣を果たす

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1554

二階崩れの変に乗じて相良晴広ら反大友の肥後国人衆が決起、菊池義武(大友宗麟の叔父)は隈本城に迎えられ菊池家再興を図るが戸次鑑連(立花道雪)率いる大友軍に敗れ自害(名門菊池氏は名実共に滅亡。なお西郷隆盛の家は菊池氏の子孫と称した)、鑑連は反抗勢力を討ち従えて肥後を制圧

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1555

朝倉宗滴が越後の長尾景虎(上杉謙信)に呼応して加賀一向一揆討伐に出陣、1日で南郷・津葉・千足の3城を落とし大聖寺を攻囲するが、陣中で病に倒れ一乗谷で死去(享年79)、柱石を喪った朝倉氏は凡庸な義景の下で一族や家臣の内紛が頻発し弱体化、一向一揆の反攻に晒され、18年後宗滴が大器を見抜いた織田信長に滅ぼされる

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1555

[厳島の戦い(日本三大奇襲)]乾坤一擲の劣勢挽回を図る毛利元就が反間の計で大内軍を狭い厳島に誘い込み、小早川隆景の調略で村上武吉・村上通康の村上水軍を味方に付け海上封鎖したうえで闇夜に渡海上陸し山上から急襲、大内軍潰走のなか逃げ遅れた陶晴賢は厳島青海苔浦で自害、一気に視界が開けた元就は直ちに大内家乗取りに奔走

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1555

能島村上水軍の村上武吉・来島村上水軍の村上通康が小早川隆景からの「1日だけの味方」要請に勝利を予見し毛利元就の厳島合戦に参戦、村上水軍の手引きで闇夜に紛れて厳島へ渡り退路を封じた毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅、村上水軍は毛利による大内家乗取り(防長経略)に協力して勢力を伸ばし塩飽諸島や備後小早川氏の水軍衆と提携して瀬戸内海を掌握

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1555

天文の乱を制し家督を継いだ伊達晴宗(政宗の祖父)が弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し男児を岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児を二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力回復に努め、後援する将軍足利義輝をしてより奥州探題に補される

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1555

北条氏康が上野大胡城を攻略するが箕輪城主長野業正が奪回、主君の大胡氏と共に長野家臣団に編入された上泉伊勢守信綱(上泉城主)は武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦して武名を轟かせ同時に新陰流兵法も発展を遂げる

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1556

大友義鎮(宗麟)の同紋衆(大友一族)重用政策に不満の他紋衆が挙兵するが首謀者の小原鑑元は討取られ反乱鎮定

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1556

[長良川の戦い]廃嫡の陰謀に気付いた斎藤義龍(実は土岐頼芸の落胤とされる)が弟の竜重・竜定を斬殺したうえ父斎藤道三を討って(享年63)美濃国主を承継(道三方の明智城主明智光安・光久兄弟は討死し逃亡した甥の明智光秀は諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官)、道三から美濃の国譲り状を得た娘婿織田信長は救援軍を出すが間に合わず

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1556

肥後人吉城主相良義陽と菱刈重任が西原氏を滅ぼして薩摩大口城を奪取、大隅境戦争を優先する守護島津貴久は大口領割譲を承認

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1556

支城の大隅岩剣城・帖佐平佐城・松坂城を攻略された蒲生氏が本拠の蒲生龍ヶ城を放棄して祁答院へ退避(翌年降伏)、島津貴久は西大隅を支配権に治める

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1556

67歳の塚原卜伝が養子の幹重に家督を譲って剃髪出家し13代将軍足利義輝を援けるため三たび上洛、近江で亡命生活を送る義輝に小太刀を指南し2年後の京都帰還に際して新当流の印可と秘剣「一つの太刀」を授与、卜伝は退いて大徳寺に参禅したあと京都を去って諸国を旅し伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を歴訪、義輝が三好三人衆に襲われ斬死すると京都相国寺の牌所を詣で10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国

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1557

[防長経略]毛利元就が陶晴賢の勢力を駆逐して大内家を乗取り周防・長州を奪取、陶の傀儡大内義長(義隆の甥)は実兄の大友義鎮(宗麟)に見捨てられ自害(毛利氏は義長の助命を申送ったが身内への猜疑心が強い義鎮はむしろ処刑を要求したとも)、元就は北九州へ食指を伸ばすが義鎮は筑前古処山城主の秋月文種を自害させるなど毛利方勢力を掃討して豊前・筑前を制圧(実行役は立花道雪)

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1557

肥後人吉城主相良義陽の家督相続を巡り肥後で内乱が発生、首謀者の上村頼孝・菱刈重任は誅殺されるが相良家は弱体化

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1558

戸次鑑連(立花道雪)が落雷に斬りつけ感電(その刀を千鳥から雷切へ改名)、後遺症で歩行困難となるが戦場には輿に乗って最前線で指揮を執り益々猛勇を示したため「雷神」と称される

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1558

[北白川の戦い]将軍足利義輝・細川晴元が挙兵し京都奪回を図るが、三好康長・三好実休・安宅冬康・十河一存ら阿波勢の来援を得た三好長慶が勝利、晴元派の庇護者六角義賢も和睦に動き義輝・晴元は降伏し5年ぶりに京都へ帰還、室町幕府を牛耳った三好政権は摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路を掌握し最後は河内・大和まで10カ国を勢力圏に収めて全盛期を迎える

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1559

[浮野の戦い]織田信長が犬山城主織田信清と同盟し織田一門の宗家で岩倉城主の織田信賢を撃破、守護斯波義銀も追放し尾張一国を平定~武功を挙げた前田利家は「槍の又左」(利家の字は又左衞門)の異名をとり母衣衆(信長親衛隊)に抜擢されて妻まつ(芳春院)を迎えるが、笄を盗んだ同朋衆(給仕役)拾阿弥(信長の異母弟説あり)を斬殺し信長の勘気を蒙って織田家を追放される

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1559

筑前の宗像氏貞が大友義鎮(宗麟)に反旗、戸次鑑連(立花道雪)が許斐山城・白山城・蔦ヶ嶽城を攻撃するが決定的勝利には至らず

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1559

毛利元就と対峙する大友義鎮(宗麟)が室町将軍足利義輝に多額の献金をして豊前・筑前守護と九州探題の官職を獲得、義鎮は本領の豊後・筑後に豊前・筑前・肥後・肥前を併せ6カ国に君臨する大友家の最大版図を実現するが、義鎮の享楽生活と見境無い女漁りが家臣の離反を招いて元就に離間工作の隙を与え、戸次鑑連(立花道雪)が孤軍奮闘で大友家の屋台骨を支える状況となる

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1559

龍造寺隆信が恩人の筑後柳川城主蒲池鑑盛を通じて大友義鎮(宗麟)に臣従し援軍を得て巻返し、旧主の少弐冬尚・千葉胤頼を攻め滅ぼし東肥前の支配権を確立

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1559

和漢融合様式を確立して職業画家集団「狩野派」を興し分業制作体制により大徳寺大仙院方丈・妙心寺霊雲院・石山本願寺など多くの障壁画を描いた狩野元信が死去、孫の狩野永徳(三男松栄の嫡子)が武家好みの豪快な画風で織田信長・豊臣秀吉に寵遇され狩野派400年の繁栄をもたらす

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1560

[桶狭間の戦い(日本三大奇襲)]松平元康(徳川家康)の三河を属国とし武田・今川との同盟で背後を固めた駿河・遠江守護今川義元(足利将軍の一族で百万石の太守)が4万の軍勢で尾張に侵攻、20万石・兵力3千人の織田信長は籠城策を捨てて奇襲を敢行し田楽狭間で休息中の今川義元を殺害(享年42)、織田信長は天下に志を抱き、無能な嫡子今川氏真が承継した駿河国は武田・徳川・北条の好餌となる

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1560

[長浜の戦い・潮江堤合戦]土佐岡豊城主の長宗我部国親が宿敵本山茂辰(国親の父長宗我部兼序を討った本山茂宗の嫡子)を攻撃、大工の手引きで長浜城を夜討ちして攻め獲り浦戸城も落として朝倉城に追詰めるが渦中に国親が陣没、嫡子長宗我部元親は茂辰に攻め返されるも自ら槍を振るって撃退、「姫若子」と侮っていた家臣を忽ち心服させた元親は一領具足を動員し土佐国司一条兼定と提携して本山派諸豪を降し茂辰を追詰める

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1560

日向国主伊東義祐の攻撃に悩む豊州家当主島津忠親の要請を受け武勇の島津義弘が養子日向飫肥城に入るが、肝付氏との戦闘激化により義弘は島津貴久に薩摩へ呼戻される

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1561

尼子晴久死去により嫡子尼子義久が家督を相続

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1561

[小田原城の戦い]今川義元討死で甲相駿三国同盟が弱った隙を衝き長尾政虎(上杉謙信)が北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と武田晴信(信玄)の後方撹乱により上野国に守将を残して撤退、鎌倉鶴岡八幡宮にて上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を継ぎ上杉政虎を名乗る

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1561

ポルトガル人殺傷事件が発生し肥前平戸への来航停止、肥前三城主大村純忠は自領の横瀬浦へポルトガル船を誘致し平戸領主松浦隆信から南蛮貿易の利を奪取、2年後に改宗し日本初のキリシタン大名となる

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1562

[門司城の戦い]豊前門司城を守る毛利元就軍が小早川隆景の奮闘により大友義鎮(宗麟)の大軍を撃退、義鎮は引責剃髪して宗麟と号し室町将軍足利義輝の調停により和睦成立 、戸次鑑連は毛利氏との和睦に断固反対するが容れられず剃髪入道し道雪と号す(道に落ちた雪は消えるまで場所を変えないように武士も一度主君を得たならば死ぬまで忠節を尽くすのが本懐である・・・との決意を表明)

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1562

[清洲同盟]三河岡崎城主の松平家康(徳川家康)が今川氏真を見限り織田信長の誘いに応じて攻守同盟締結、元康は三河の今川方諸城を攻め取り、東方の安全を確保した信長は清洲から小牧山に本城を移し美濃攻略に専念

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1562

[久米田の戦い・教興寺の戦い]和泉岸和田城主十河一存(三好長慶の弟)の急死に乗じた畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢と連携し細川晴之(晴元の次男)を担いで挙兵、三好長慶は三好義興(嫡子)・安宅冬康(弟)・松永久秀の奮闘で挟撃の危機を凌ぐが(高政を再追放して河内を回復し六角と和睦して京都を奪回)、一存と共に兄長慶を支えた三好実休が敗死、両翼を喪って弱体化した三好政権は反三好勢・将軍足利義輝の反抗に手を焼き家中では松永久秀の勢力が伸張

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1562

大友宗麟の被官で筑前岩屋城・宝満山城主の高橋鑑種(一萬田鑑相の実弟)が毛利氏へ寝返り宗像氏貞・秋月種実・筑紫惟門・龍造寺隆信らと反大友連合を結成(女漁りに見境の無い宗麟が一萬田家の嫁に横恋慕し強奪したため鑑種は憤慨し謀反したという)、戸次鑑連(立花道雪)の強諌にも関らず宗麟は享楽生活を改めず夫人に呪詛された挙句に失踪事件を起したかと思えば臨済禅に凝って家臣を辟易させる

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1562

門司城の戦いで大友宗麟を撃退し大内方諸豪を滅ぼして山陽道を征した毛利元就が山陰の尼子攻めに注力、吉川元春率いる毛利軍は山吹城を攻落として守将の本城常光を族滅し富の源泉石見銀山を奪回、石見全域を制圧し尼子義久の籠る出雲月山富田城を攻囲

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1563

毛利元就の嫡子毛利隆元が死去し11歳の嫡子毛利輝元が家督を相続、吉川元春・小早川隆景(元就の子)の「毛利両川」が毛利家を宰領する

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1563

[丹坂峠の戦い]肥前の大半を支配する島原城主有馬義貞・三城主大村純忠の兄弟が東肥前で台頭著しい龍造寺隆信を攻撃するが敗退、南肥前へ勢力を伸ばす隆信を危険視した大友宗麟は後援を打切って反抗勢力を支援

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1564

陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」三好長慶が死去(享年43)、三好長慶・三好実休・安宅冬康・十河一存の四兄弟を一挙に喪った三好政権は内部分裂で瓦解し京都・堺・奈良の三大都市を握る松永久秀が台頭、織田信長の畿内侵攻に遭って三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は掃討され、久秀と長慶の養嗣子三好義継は信長に降るが最後は謀反し滅ぼされる

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1564

伊東義祐の侵攻により日向真幸院領主北原氏が滅亡、島津貴久は次男義弘を飯野城主に据え伊東氏と対峙

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1565

[永禄の変]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が三好長慶の死を機に自立を図る二条御所の将軍足利義輝を襲撃(松永久秀は消極的あるいは不関与説もあり)、塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪将軍義輝は刀を換えつつ奮戦するが斬死(享年30)、義輝の生母慶寿院は殉死し弟の鹿苑寺周暠は殺されるが一乗院覚慶(足利義昭)は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、三好長慶の養嗣子義継を擁する三好三人衆が専横を強める松永久秀と断交し争乱に発展

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1565

興福寺に幽閉された将軍足利義輝の弟一乗院覚慶(足利義昭)が三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は近江甲賀の和田惟政邸で足利将軍家の家督を宣言し南近江守護六角義賢が献上した野洲郡の矢島御所に移り還俗して足利義秋(義昭へ改名)を名乗り、関東管領上杉輝虎(謙信)・河内守護畠山高政・能登守護畠山義綱らに三好三人衆・松永久秀打倒を要請するが三好長逸に矢島御所を襲撃され六角義治(義賢の嫡子)に内通疑惑が生じたため若狭守護武田義統を頼り亡命、力不足の武田家を去り越前朝倉氏を頼るが朝倉義景は重い腰を上げず

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1566

[箕輪城落城]局地戦では無敵ながら関東に安定基盤を築けない上杉輝虎(謙信)の権威が低下し守将の北条高広まで離反、最後の拠点上野箕輪城を武田信玄に落とされ長野業盛(業正の後嗣)は自刃し上野長野氏は滅亡、輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総を転戦するが挽回できず関東制覇を断念、代わりに北条氏康が関東諸豪を切崩し勢力を回復

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1566

箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される)

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1566

[第二次月山富田城の戦い]毛利元就・吉川元春が5年に及んだ月山富田城攻囲戦を征し尼子義久が降伏開城(尼子義久・倫久・秀久兄弟は助命され子孫は毛利家臣として存続、後に尼子再興軍を旗揚げする山中鹿介は上京へ逃れ諸国巡歴)、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇

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1566

松平家康が改姓し徳川家康を名乗る(松平氏は三河賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、家祖徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河一国の太守に相応しい源姓・名字徳川に改めたと考えられる)

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1566

島津貴久が隠居し嫡子島津義久が16代島津宗家を承継、義久・義弘・歳久・家久の島津4兄弟による九州統一への挑戦が始まる

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1566

伊東義祐が飯野城攻略のため三ツ山城(小林城)を築城、島津義久は兵2万を動員して攻撃するが激戦の末に島津義弘も重傷を負い撤退

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1566

大友宗麟が家督を嫡子義統に譲って豊後臼杵城へ移るが実権は保持

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1567

吉弘鎮理(大友宗麟の三宿老吉弘鑑理の次男、のち高橋紹運を名乗る)の嫡子に吉弘統虎が出生(のち立花道雪に入嗣し立花宗茂)

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1567

毛利元就に通謀した秋月種実(文種の次男)が筑前で挙兵し呼応した筑前宝満城・岩屋城主の高橋鑑種と筑後の筑紫惟門が大友宗麟に反旗を掲げ筑前の宗像氏貞・原田隆種と肥前の龍造寺隆信も呼応、征伐軍を率いる戸次鑑連(立花道雪)は戸次一族と譜代重臣の多くを喪う激戦の末に立花山城を攻略し(城主の立花鑑載は自害)筑前・筑後の反抗勢力を鎮圧

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1567

織田信長が美濃国を制圧、中国周王朝の発祥地に因んで稲葉山城を岐阜城へと改名し本拠を移動、国境を接した武田信玄を贈物攻勢と婚姻政策で宥めつつ「天下布武」を掲げて京都を窺う

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1567

丸目蔵人長恵が愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ世人に真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず、師の上泉伊勢守信綱は長恵に新陰流の印可を授与(「殺人刀」教授は認めるが「活人剣」は秘匿すべしとの制限付)、長恵は肥後人吉へ戻り相良晴広の命により薩摩大口城守将の東伊勢守の旗下に入る

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1568

将軍足利義輝を殺害した松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が阿波に居た足利義栄(11代将軍義澄の孫で13代義輝の従弟)を担ぎ出して14代室町将軍の宣下を受けるが、専横を強める松永久秀と三好一門衆の抗争が勃発し将軍義栄は入京できぬまま半年後に病死

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1568

足利義昭(三好三人衆・松永久秀が弑殺した将軍足利義輝の弟)が上洛要請に応じない朝倉義景に失望し幕臣の細川藤孝・新参の明智光秀の手引きで越前を脱走し尾張の織田信長へ鞍替え、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ南近江の六角義賢と畿内の三好三人衆を一掃し(松永久秀・三好義継は逸早く投降)、入洛して義昭を15代室町将軍に擁立、織田信長は関所撤廃と楽市楽座により寺社特権を剥奪し松永久秀が敷いたキリスト教宣教師追放令も撤廃

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1568

[観音寺城の戦い]上洛に向かう織田信長が通路確保のため南近江の六角義賢に従軍を要請するが拒絶(領地明渡しや臣従の強要ではなかったが、義賢は近江で争う浅井長政と同盟した信長を警戒、将軍足利義栄を担ぐ三好三人衆に与して信長に抵抗)、支城の箕作城を一夜で落とされた義賢は観音寺城を放棄して逃亡し鎌倉幕府創立から続く佐々木氏嫡流の六角氏は滅亡、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は嫡子蒲生氏郷を人質に出して降伏、蒲生氏の義理堅さに感じた信長は氏郷を近侍させ厚遇する

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1568

織田信長軍団の高級将校木下藤吉郎(豊臣秀吉)が六角義賢討伐・観音寺城の戦いで主戦場となった支城の箕作城攻めで活躍(信頼できる資料に初登場)、翌年京都警備役(師団長格)に大抜擢され1万石の所領を得る

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1568

長宗我部元親が瓜生野城攻囲中に宿敵本山茂辰が死去し嫡子本山親茂を降伏させて土佐中部を平定、翌年の八流の戦いで安芸国虎を攻め滅ぼし土佐東部も制圧した元親は土佐統一を臨み毛利氏の伊予出兵に敗れ衰亡へ向かう伊予国司一条兼定を標的に据える

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1568

島津氏中興の祖島津忠良(日新斎)が死去

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1568

島津義久が日向国主伊東義祐の猛攻に晒された飫肥城を放棄、城主島津忠親は庄内(都城)へ撤退し間もなく病没、「九州の小京都」佐土原に拠り日向国内に四十八支城を構えた伊東氏は全盛期を迎える

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1568

[毛利氏の伊予出兵]大友宗麟と通じる大洲城主宇都宮豊綱・土佐中村城主一条兼定が湯築城主河野通宣を攻撃、河野重臣の村上通康(渦中に病死し嫡子の来島通総が家督と来島村上水軍を承継)から援軍要請を受けた毛利元就は小早川隆景・乃美宗勝を派遣し宇和島の西園寺公広と同盟して大洲城を攻略、元就は元寇の勇将河野通有以来伊予を支配した河野氏と村上通康ら水軍衆を支配下に置くも九州大友氏との二方面戦争を余儀なくされ敗戦で没落した一条家では被官の長宗我部元親が台頭する

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1569

[本圀寺の変]織田信長の岐阜城帰還を衝いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が将軍足利義昭が仮寓する京都本圀寺を襲撃、引き返して反乱を一蹴した信長は豪壮な二条御所(烏丸中御門第)を造営して将軍の権威を示し衰微した皇室の経営再建にも尽力、「幕府再興」に有頂天の将軍義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが信長は逆に『殿中御掟』を突きつけて傀儡将軍の増長を掣肘、義昭から貿易都市堺支配のお墨付き得た信長は町衆を脅して自治権を剥奪し外国貿易と鉄砲・煙硝の供給ルートを掌握(信長は堺商人で侘茶名人の千利休を茶頭に召抱える)

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1569

[掛川城攻略]武田信玄と今川領の東西分割を約した徳川家康が遠江へ侵攻、掛川城落城により駿河守護今川家滅亡(今川氏真は妻早川殿の実家後北条氏に亡命後、徳川家康の庇護下に入り家名存続)、遠江一国を制圧した徳川家康は三河岡崎城から遠江浜松城に居城を移し大井川を隔てて武田信玄と対峙

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1569

戦国大名屈指の名門で駿河・遠江・三河を領有した今川氏が滅亡、今川氏真は流転の末に徳川幕府に庇護され77歳の長寿を全うし子孫は高家旗本として存続

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1569

織田信長の木下藤吉郎(豊臣秀吉)軍団が但馬に侵攻、山名祐豊を降し生野銀山(秀吉の強力な経済基盤となる)などを制圧

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1569

[三増峠の戦い]武田信玄が上杉輝虎(謙信)と和睦し安房里見・常陸佐竹と同盟したうえで駿河侵攻を阻む北条氏康の小田原城を攻囲、北条軍を相模国境三増峠で撃破し駿河一国の制圧に成功、常陸の北条方小田氏治が佐竹氏に大敗降伏し北条氏康の関東制覇の野望が費える

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1569

筑前・筑後を制圧した戸次鑑連(立花道雪)が龍造寺隆信討伐のため肥前へ転戦すると、龍造寺と通謀する毛利元就が豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景が拠点の立花山城を攻略、鑑連は龍造寺と和睦して馳せ戻り最前線で奮戦するも戦線は膠着、大友宗麟が軍師吉岡長増の後方撹乱策を容れて山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)を誘発すると毛利軍は撤退、宗麟は戸次鑑連(立花道雪)・高橋鎮種(紹運)を守将に据え筑前・筑後支配を確立

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1569

大友宗麟が反逆した高橋鑑種を一旦赦免するが高橋家臣団からの当主更迭要請を容れて宿老吉弘鑑理の次男鎮種(紹運)に高橋家の名跡と所領・岩屋城と宝満山城を引継がせる(実子の無い鑑種は秋月家から養子を迎え高橋元種と名付けて宗麟・紹運に対抗、高橋家は二家となり更なる紛争の火種となる)

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1569

[尼子再興(第一回)]山中鹿介幸盛ら尼子残党が京都東福寺にいた尼子勝久(新宮党国久の孫)を還俗させて主君に担ぎ大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、隠岐から本土に渡って兵を募り、北九州攻めで手薄な毛利勢の虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻し月山富田城に迫るが、大友宗麟と和睦した毛利元就が次男吉川元春に大軍を預け派遣、間もなく元就が病没するが元春は弔い合戦と称して踏み留まり児玉就英の毛利水軍が制海権を奪い最後の拠点新山城も攻略、鹿介は捕捉されるが偽りの投降で助命され監視の目を逃れて伯耆尾高城から脱走

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1569

[大内輝弘の乱]大友宗麟の軍師吉岡長増の後方撹乱計略により大内一族の輝弘が豊後から周防に入り挙兵、北九州攻めで手薄な高嶺城を攻囲するが、毛利元就が大友宗麟と和睦し吉川元春・小早川隆景の精鋭が駆け戻ると反乱は瓦解し輝弘は自害

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1569

能島村上水軍の村上武吉が九州侵攻に失敗した毛利元就から離れ大友宗麟に接近、大内輝弘の乱で大友水軍に伊予灘を素通りさせたため毛利家との関係が悪化

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1570

織田信長が朝倉義景討伐で越前に攻め込むが浅井長政離反により撤退、殿軍の木下藤吉郎(豊臣秀吉)の決死の奮戦で挟撃の窮地を脱出(金ヶ崎の退き口)、逃避行に随従した松永久秀は近江朽木谷城主の朽木元綱の協力を取り付ける活躍

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1570

出羽米沢城主伊達輝宗(政宗の父)が権臣中野宗時・牧野久仲父子を追放し父伊達晴宗を隠居に追込んで家中を掌握、鬼庭左月斎・遠藤基信を側近に登用して外交活動を展開、蘆名氏との同盟を保ちつつ南奥羽諸豪の紛争を調停し織田信長・柴田勝家・北条氏政らと友好関係を構築

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1570

[姉川の戦い]織田信長・徳川家康連合軍が近江姉川河原(長浜市)で浅井長政・朝倉義景連合軍と激突、浅井軍の猛攻で織田陣は13段のうち11段まで突破され信長の本陣も危うかったが朝倉軍を破った徳川勢の奮闘で辛勝(本多忠勝は単騎駆けで戦端を開き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍)、合戦後も戦力を残した浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、信長は比叡山焼き討ちや磯野員昌ら浅井・朝倉家臣の離間工作で応戦

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1570

美濃岩手城主竹中半兵衛重治が舅の安藤守就の勧めで朋輩の牧村利貞・丸毛兼利と共に織田信長に帰服、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力に加えられた軍師半兵衛は旧知の堀家家老を口説いて長亭軒城を寝返らせ浅井長政が固めた美濃・近江の陸上封鎖を打破、姉川の戦いにも従軍し弟の竹中重矩が浅井家の豪傑遠藤直経を討取る活躍、合戦後最前線の近江横山城に留め置かれた藤吉郎は小谷城の浅井長政と対峙し半兵衛の軍略により均衡を保つ

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1570

[石山合戦・信長包囲網(第一次)]織田信長の石山本願寺明け渡し要求を拒んだ顕如が挙兵し石山合戦が勃発(下間頼廉・鈴木重秀の指揮のもと11年も織田軍団の猛攻を凌ぎ切る)、呼応して起った伊勢一向一揆で信長の弟織田信興が戦死、浅井・朝倉・本願寺・延暦寺の攻囲に晒された織田信長は将軍足利義昭の仲介で正親町天皇の勅命を得て和睦に漕ぎ着け窮地を脱出、和睦を成功に導いた明智光秀(このときは義昭・信長への両属)は近江坂本城10万石を与えられ44歳で一城の主となり、春日井堤の合戦で単騎踏み留まり味方の潰走を食止めた前田利家は信長から「日本無双の槍」と激賞され1万石余の加増を受けて織田家大名衆に加わる

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1570

本願寺顕如の要請を受けた雑賀衆の鈴木重意が根来衆と協力し鉄砲隊600余を率いて三好三人衆に加勢し織田信長軍団と交戦(佐々成政を負傷させる)、石山合戦が起ると鈴木重秀(重意の次男)が石山本願寺に入り下間頼廉と共に一向一揆軍団の軍事指揮を担う(大坂左右大将)

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1570

[今山の戦い]毛利元就を撃退して豊前・筑前の支配を固めた大友宗麟が傘下で台頭する龍造寺隆信を討つため6万の大軍を率いて肥前へ侵攻、佐賀城に追詰められた隆信は鍋島直茂の提言を容れて敵本陣への夜襲を敢行、敵将大友親貞(宗麟の従弟)をはじめ2千人を討取る大戦果を挙げて宗麟と和睦、大友氏の干渉を脱した隆信は肥前諸豪を切り従え大友・島津に対抗する第三極へ躍進

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1570

島津家久の軍勢が相良氏に奪われた薩摩大口城を攻囲、肥後人吉城主相良義陽は援軍を派遣するが丸目蔵人長恵(柳生宗厳と双璧を為す上泉信綱の高弟でタイ捨流兵法の創始者)の勇み足により大敗(義陽は激怒し長恵を逼塞に処す)、菱刈氏の降伏開城で大口城を奪回した島津義久は東郷氏・入来院氏も降伏させて薩摩統一を達成

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1571

能島村上水軍の村上武吉が毛利元就に反旗を掲げ宇喜多直家・浦上宗景に加勢するが小早川隆景に拠点の備前児島本太城を攻落とされ来島通総の来島水軍・村上吉充の因島水軍も毛利につき孤立、能島に押込められた武吉は大友宗麟の毛利攻めに期待を繋ぐが龍造寺隆信に敗れた大友に余力は無く毛利に帰参する

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1571

一土豪の次男から旧主の大内氏・尼子氏を滅ぼして安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を征服した毛利元就が吉田郡山城にて死去(享年72)、山中鹿介の尼子再興・大内輝弘の乱を鎮圧した吉川元春・小早川隆景(元就の次男・三男で「毛利両川」と称される)が家督の毛利輝元(元就の嫡孫)を担いで毛利家を宰領し迫り来る織田信長に対峙

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1571

大隅の肝付氏・日向の伊東義祐との激戦の最中に大黒柱の島津貴久が死去

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1571

上泉伊勢守信綱が京都を退去し上野上泉へ帰国、柳生宗厳に一国一人の印可を授けて新陰流正統を託し併せて「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」を公案として課す

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1571

[比叡山焼き討ち]織田信長が信長包囲網への反撃開始、平安時代から続く宗教畏怖観を破って延暦寺焼き討ちを敢行し数千の僧兵と居るはずのない女子供の悉くを誅殺

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1571

松永久秀から大和筒井城を奪還した筒井順慶が明智光秀(妻の義兄)・佐久間信盛の斡旋により織田信長に臣従し久秀と小競り合いを繰返しつつ光秀の与力として信長の天下統一戦に従う、久秀方で活躍し柳生の庄(所領は2千石ほど)を保った柳生家厳は嫡子の柳生宗厳に家督を譲り隠遁

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1571

関東の雄北条氏康が死去(享年57)、嫡子北条氏政は「上杉謙信との越相同盟を捨て、武田信玄と同盟し直せ」との遺言に従い甲相同盟を再締結し再び上杉謙信と敵対

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1571

戸次鑑連(立花道雪)が大友宗麟から筑前守護職に補され立花山城主となり立花氏の名跡を承継、岩屋城・宝満城の高橋紹運や柑士岳城の臼杵鎮続らを統率して秋月種実・筑紫広門・龍造寺隆信・宗像氏貞・原田隆種・龍造寺隆信の猛攻を凌ぎ1578年の耳川敗戦まで大友領を死守する

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1571

大村純忠がポルトガル船の寄港地を肥前横瀬浦から長崎へ移し南蛮貿易が活発化(長崎貿易)、肥前の領袖有馬義貞(純忠の実父)が家督と島原城を次男晴信に譲り隠居、有馬晴信は当初キリスト教を弾圧するが数年後改宗し純忠と共に熱心なキリシタン大名となる

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1572

[一言坂の戦い]三方ヶ原の戦いの前哨戦、武田信玄に遠江二俣城を奪われた徳川家康が出陣するが衆寡敵せず三河浜松城へ撤退、殿軍の本多忠勝は見事な武者ぶりで馬場信春・小杉左近の追撃を抑え武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛される(忠勝の通称は平八郎)

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1572

[三方ヶ原の戦い]上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保し将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携した武田信玄が織田信長討伐軍を率いて京都へ進発、道中の遠江浜松北方で戦を仕掛けてきた徳川軍を一蹴するが追撃せず浜松城に逃れた徳川家康は九死に一生を得る(左翼を担った本多忠勝は「赤備え」の精鋭山県昌景隊を撃退、殿軍の大役を果し家康を浜松城へ逃すが叔父本多忠真が討死)

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1572

[木崎原の戦い(九州の桶狭間)]大隅の肝付氏が島津貴久の死に乗じて島津領へ侵攻、呼応した日向の伊東義祐は伊東祐安に精鋭3千を与え三ツ山城(小林城)から真幸院の加久藤城・飯野城を急襲するが、通謀した相良義陽の肥後勢は奇計に嵌って逃げ帰り、僧侶と農民を掻き集めて兵300で迎撃した島津義弘の猛勇と「釣り野伏せ」戦法の前に祐安以下800余名を討たれ壊滅、日向戦線は一気に逆転し過半の武将を喪った伊東氏は衰亡へ向かう(伊東崩れ)

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1573

長大剣で富田勢源の相手を務め奇形剣士となった18歳の佐々木小次郎が新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流と家督を承継)に秘剣「燕返し」でまさかの勝利、師と門弟の恨みを買った小次郎は越前一条谷を出奔し1m近い愛刀備前長光(「物干し竿」と称される)を背に諸国を巡歴し次々と兵法者を薙倒して西国一円に剣名を馳せる

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1573

武田信玄・将軍足利義昭と通謀した松永久秀が織田信長に叛逆、久秀は多聞山城・嫡子久通は信貴山城・三好義継は河内若江城に籠城するが信玄急死で信長包囲網が瓦解、義継を佐久間信盛に討取られ(若江城の戦い)孤立した久秀は信長に投降、多聞山城と夥しい献上物を差し出して赦免され、信盛与力として石山合戦に従軍

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1573

[室町幕府滅亡]武田信玄挙兵に奮起した将軍足利義昭が洛中で織田信長討伐軍を挙兵するが宇治槇島城を大軍に包囲され降伏、義昭を見限った明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣は信長に奔り、半年後に追放され室町幕府滅亡(羽柴秀吉の献言で助命されるが毛利領の備後鞆に亡命し反信長策動を続ける)

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1573

三河野田城を落とし織田信長との決戦を目前に病に倒れた武田信玄が山県昌景に「明日は瀬田に旗を立てよ」と言い残して信濃下伊奈で陣没(享年53)し武田軍は継戦不能で撤退、甲斐・信濃・駿河3国と上野・遠江・三河に及ぶ大封を相続した武田勝頼(側室腹の四男)は信玄の遺命に従い上杉謙信と和親を講じるが信玄が望んだ保守路線を捨てて積極的な外征戦略を採り織田信長領の東美濃・徳川家康領の遠江へ侵攻、子飼いの長坂釣閑・跡部勝資を重用し次第に信玄遺臣との軋轢が深まる

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1573

武田信玄の急死により信長包囲網(第二次)が瓦解、織田信長は越前一乗谷城の朝倉義景・北近江小谷城の浅井長政を攻め滅ぼし近江・越前を征服、長政の妻市(信長の妹)と茶々(後の豊臣秀吉側室の淀殿)・初(後の京極高次正室)・江(後の徳川秀忠正室)の三姉妹は現地指揮官の羽柴秀吉(豊臣秀吉)救出される

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1573

[尼子再興(第二回)]伯耆尾高城を脱走した山中鹿介幸盛が諸浪人を集めて尼子再興軍を再結成、海賊働きで因幡に割拠し、山名豊国に加勢して鳥取城の逆臣武田高信を討って東因幡を制圧するが、豊国が毛利方に寝返り(この後も寝返りを繰返した豊国は家臣に追放される)、但馬の山名祐豊も毛利と和睦(芸但和睦)、鹿介は若桜鬼ヶ城に籠って吉川元春・小早川隆景の猛攻を凌ぐが挽回ならず撤退、尼子再興軍は織田信長に臣従し明智光秀軍に加わる

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1573

織田信長の家臣木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家中の長臣柴田勝家と丹羽長秀の字をもらい羽柴秀吉へ改姓、浅井長政討滅の大功により浅井家遺領全部20数万石を与えられ近江長浜城(今浜・小谷城から改名)に拠って織田家中屈指の将領となる

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1573

備前の実力者浦上宗景が毛利・尼子氏勢力に対抗するため織田信長に帰順し主家赤松氏の頭越しに備前・播磨・美作3カ国の支配権を認められるが、国人勢力の反発が広がるなか家臣宇喜多直家は簒奪の隙を窺う

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1573

島津義久が禰寝氏・肝付氏・伊地知氏らを帰順させ大隅国を平定

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1574

[天正最上の乱]出羽山形城主最上義光に反発する天童頼貞ら「最上八楯」が隠居の最上義守を担いで蜂起、白鳥長久・細川直元・大宝寺義氏・上山満兼ら国人衆と米沢城主伊達輝宗(義守の娘婿)が同調し寒河江兼広も降伏、四面楚歌の義光は必死の防戦で和睦に漕ぎ着け伊達氏からの完全独立を果す

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1574

武田勝頼が織田信長領の東美濃へ侵攻し明知城をはじめ支城18城を攻略、そのまま徳川家康領の東遠江に入り長篠近くの大野田新城を落とし小笠原長忠を降して拠点の高天神城を奪取、家康の経済官僚大賀弥四郎に誘われて岡崎城へ向かうが陰謀が露見し弥四郎は処刑され、勝頼は振上げた拳を信玄没後家康に奪われた三河設楽郡長篠城へ向けるが奥平貞能・貞昌父子の抵抗頑強で長陣となる

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1574

[長島一向一揆平定]織田信長の滝川一益軍団が長島一向一揆(盟主は本願寺顕如)を猛攻、信長の庶兄織田信広と弟の織田秀成も戦死する激戦となるが、九鬼嘉隆の織田水軍による海上封鎖・兵糧攻めで優位に立ち門徒2万人を全滅に追込む

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1575

[長篠の戦い]徳川家康領を狙う武田勝頼の軍勢1万3千が奥平貞昌が守る三河長篠城を攻囲、織田信長は武田軍を恐れつつも徳川家康の強迫により兵3万を率いて出陣し徳川軍8千を救援、信玄遺臣らは甲府撤退あるいは長篠城優先策を進言するが長坂釣閑・跡部勝資に煽られた勝頼は野戦を選択、酒井忠次の夜襲で鳶ヶ巣山を奪われ逆上した武田軍は設楽ヶ原に殺到するが馬防柵と鉄砲の三段撃ちで撃破され山県昌景・馬場信春・原昌胤・真田信綱など存命の武田二十四将13人のうち7名が戦死する大敗を喫す~佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊5奉行として奮戦した前田利家は佐々成政・不破光治との相持ちで越前に10万石を与えられ尾張荒子城から越前府中(武生)城へ移る

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1575

小寺孝高(黒田官兵衛)の策動により播磨御着城主小寺政職が三木城主別所長治・赤松広秀(政秀嫡子)と共に織田信長に帰服申入れ、官兵衛は岐阜城で信長に謁見し名刀「圧切」を拝領、翌年明けに京都で政職・長治・広秀を信長に謁見させる

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1575

[四万十川の戦い]長宗我部元親が重臣を篭絡して土佐国司一条兼定を追放し嫡子一条内政に娘を嫁がせて傀儡当主に擁立、豊後へ逃れた兼定は舅の大友宗麟の力添えで土佐中村御所に舞戻るが来襲した長宗我部軍に四万十川の守りを破られ潰走、土佐統一を果した元親は織田信長と同盟を結び一領具足を率いて強敵不在の四国平定に乗出す

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1575

[越前一向一揆平定]富田長繁ら朝倉遺臣が土一揆と結託し織田信長が越前守護代に任じた前波吉継を殺害、当初支援した本願寺顕如は加賀一向一揆から下間頼照・七里頼周を送り込み富田らを攻め滅ぼして越前国を制圧するが七里の暴政で民心が離反し信長が3万余の大軍を率いて来襲すると忽ち一揆勢は瓦解(下間頼廉は七里頼周に自重を促すが間に合わず)、柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据え前田利家・佐々成政・不破光治らを与力につけて織田家北陸軍団を編成し加賀一向一揆・越後の上杉謙信と対峙

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1575

[備中兵乱~天神山城の戦い]宇喜多直家が浦上久松丸(政宗の孫)を担ぎ主君浦上宗景に反旗、直家の謀略で備前・備中・美作の浦上被官の離反が相次ぎ、備中を支配する毛利氏は小早川隆景が吉川元春の反対を押切って直家と同盟し織田信長へ寝返った備中松山城三村元親(直家は父家親の仇)を討滅、備前天神山城を攻囲された宗景は播磨へ逃亡し織田家荒木村重の支援を得てゲリラ戦を継続するが4年後に掃討され戦国大名浦上氏は滅亡(晩年は黒田長政の庇護下で余生をつなぐ)、梟雄宇喜多直家は備前一国を掌握し毛利氏に従って播磨へ侵攻

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1575

織田信長が家督と美濃・尾張を嫡子織田信忠に譲る

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1575

立花道雪が一子誾千代に家督を譲る

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1576

織田信長が近江安土城の築城を開始し障壁画の制作を狩野派の狩野永徳に委託、3年後の完成に伴い信長は岐阜城を嫡子織田信忠に譲り本拠を安土城に移す

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1576

[第一次木津川口の戦い]毛利から石山本願寺への水上補給路遮断のため九鬼嘉隆の織田水軍が戦を仕掛けるが乃美宗勝率いる毛利・小早川・村上の水軍勢が撃退(能島・来島・因島の三島村上水軍は揃って従軍、村上武吉は嫡子の村上元吉に能島水軍を率いさせ自らは出陣せず)

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1576

織田信長に京都から追放された前将軍足利義昭が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の護衛で三好義継の河内若江城に寄寓後毛利輝元に亡命し備後鞆に居住、義昭は将軍在任を主張し諸侯に「御内書」を送って打倒信長・室町幕府再興を呼掛ける

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1577

[甲相同盟]長篠の戦いに敗れ織田信長・徳川家康に圧迫された武田勝頼が北条氏政の妹を継室に迎えて甲相同盟を強化し同盟した将軍足利義昭・本願寺顕如を通じて上杉謙信と和親を図る

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1577

[紀州征伐]各地の一向一揆に手を焼き本拠地の石山本願寺を攻めあぐねた織田信長が根来衆と雑賀衆三組(中郷・南郷・宮郷)を帰服させ自ら大軍を率いて紀州を制圧、本願寺軍指揮官で雑賀衆首領の鈴木重秀(雑賀孫一)は不利を悟って進んで帰順し父の鈴木重意(十ヶ郷)も中野城を落とされ降伏するが、織田軍が引上げると抗戦派の土橋守重(雑賀荘)が盛返し重意も与して雑賀衆三組を追討し再び本願寺顕如と連携して信長に反旗を翻す

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1577

[英賀合戦]一向衆門徒の播磨英賀城主三木通秋が石山合戦勃発に伴い織田家を離反して毛利氏と同盟、乃美宗勝が毛利水軍を率いて英賀に上陸し5千の兵で小寺政職領に侵攻、防衛軍5百を率いる小寺孝高(黒田官兵衛)は農民に軍旗を掲げさせる偽装援軍の奇計で撃退、愚鈍な小寺政職の嫡子氏職の身代わりに嫡子黒田長政を人質に送って信長に中国征伐を促す

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1577

[越中大乱~七尾城の戦い~信長包囲網(第三次)]上杉謙信が逆臣椎名康胤と国人衆を討ち平らげて越中を制圧、そのまま温井景隆の要請で能登へ攻め込み七尾城を奪った織田方の長続連・綱連父子を討滅(傀儡守護の管領畠山氏は滅亡)、越後・越中・能登の三国を征した謙信は本願寺顕如・一向一揆と和睦し毛利輝元・波多野秀治・紀州雑賀衆らと連携して織田信長と対峙

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1577

[手取川の戦い]長篠の戦いで武田軍に勝利し自信を得た織田信長が上杉謙信との決戦を決意、柴田勝家に3万余の大軍を授け能登七尾城救援に派遣するが加賀南部手取川で上杉謙信に迎撃され惨敗、主将の柴田勝家と対立し無断帰国した羽柴秀吉(豊臣秀吉)は毎日酒宴を開いて遊び惚けることで信長の疑惑と怒りをかわす

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1577

上杉謙信の挙兵上洛を期待する松永久秀が織田軍団の北陸攻めに乗じて再び叛逆するが、謙信急死で上杉軍は撤兵し、織田信忠・細川藤孝・明智光秀・筒井順慶の軍勢に大和信貴山城を攻囲され、信長所望の名物茶器「平蜘蛛」を破壊して自害し己の首を火薬で爆破(享年68。10年前の東大寺大仏殿焼討ちと同じ10月10日の同時刻であったという)、嫡子松永久通と妾腹の二児も処刑されて松永氏は滅亡し大和の遺領は筒井順慶に与えられる

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1577

織田信長の明智光秀・細川藤孝軍団が丹波亀山城を奪取、ここを前線拠点に丹波全域を平定、波多野秀治は帰順し信長は本領安堵を許す

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1577

小寺政職家臣で姫路城代の小寺孝高(黒田官兵衛)の要請を受けた織田信長が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に軍団を預け中国毛利攻めに着手(官兵衛は姫路城を提供し嫡子長政を人質に送って小寺家との両属の形で信長に臣従、秀吉の与力に加えられ竹中半兵衛と並ぶ軍師となる)、秀吉軍団は播磨・美作・備前国境の要衝上月城を忽ち攻め落とすが、別所長治が離反し三木城に籠城すると東播磨諸豪の大半が毛利方へ寝返り、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に宇喜多忠家(直家は仮病を使って従軍せず弟忠家を派遣)の軍勢3万が続々来襲

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1577

[伊東崩れ]木崎原合戦の大勝で一転優位に立った島津義弘が日向国主伊東義祐を逆襲、高原城・三ツ山城(小林城)を落とされても栄華に耽る義祐は動かず諸豪・家臣は相次いで離反、飫肥城を攻略され北部土持氏との挟撃の危機に晒された義祐は一戦もせずに佐土原城から逃亡、命からがら豊後に辿り着き大友宗麟に島津征伐を哀願、日向を制圧した島津義久は薩摩・大隅・日向の三州統一を達成

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1578

[御館の乱・甲相同盟決裂]軍神上杉謙信が織田信長討伐の大動員令を発した直後に後継を定めず急逝(享年49)、養子の上杉景勝(長尾政景の子で謙信の甥)・上杉景虎(北条氏政の弟)の家督争いが勃発し、氏政の出陣要請に応じた武田勝頼は信濃飯山で景勝軍を撃破するが寵臣長坂釣閑・跡部勝資の策動に乗り上杉家の臣従と東上野割譲・膨大な献上物・妹菊姫の入輿に釣られ景勝へ乗換え(甲越同盟)、景勝は景虎・道満丸父子と上杉憲政(山内上杉氏の家督と関東管領職を禅譲した謙信養父)を滅ぼし家督を継ぐが弱体化した上杉家は信長の侵攻に晒され防戦一方(18歳の腹心直江兼続は奏者番を務め忽ち頭角を現す)、激怒した氏政は甲相同盟を破棄して織田・徳川と同盟を結び武田領上野へ侵入、勝頼は挟撃の窮地に陥るも積極姿勢を崩さず諸戦線を転戦

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1578

[尼子再興(第三回)~上月城の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)・小寺孝高(黒田官兵衛)の中国侵攻に従った山中鹿介幸盛の尼子再興軍は、攻略した播磨上月城の守将に任じられるが、三木城主別所長治を寝返らせた毛利方の吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家の大軍が来襲、上月城は織田信長の命で見捨てられ尼子勝久一族悉く自刃し降伏開城、捕捉された鹿介は斬殺(享年32)、秀吉陣中にあって難を逃れた亀井茲矩は尼子再興軍を承継し徳川家康に転じて因幡鹿野藩初代藩主(次代に石見津和野藩へ加転封)となる

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1578

[第2次木津川口の戦い]大筒・大鉄砲を装備し焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍が村上武吉率いる毛利・小早川・村上水軍を撃破、石山本願寺への補給路を絶たれた顕如は継戦が困難となる

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1578

キリシタン大友親家(宗麟の次男)と田原親賢ら家臣団との対立事件を契機に大友宗麟が宣教師フランシスコ・カブラルから洗礼を受けキリスト教保護を表明(洗礼名ドン・フランシスコ)

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1578

[月岡野の戦い]上杉謙信の急死に乗じた織田信長が上杉の本領越後と北陸遠征軍の分断を図り斎藤利治・佐々成政を派遣、守備の薄い飛騨口から越中中部に侵入した織田軍は月岡野で河田長親の上杉軍を撃破、以後越後は織田・上杉に両分され睨み合いが続く

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1578

毛利に属しながら織田にも誼を通じ吉川春元・小早川隆景の暗殺も企てた備前国主宇喜多直家が小寺孝高(黒田官兵衛)の説得に応じて羽柴秀吉(豊臣秀吉)へ内通を申送り上京して織田信長に臣従(このとき直家は道案内役に堺商人小西隆佐の次男小西行長を召出す)

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1578

織田信長配下の荒木村重謀反、明智光秀(嫡子荒木村次の岳父)の説得を拒絶して摂津有岡城で1年間籠城するが毛利の援軍は来ず側近の中川清秀と高山右近が寝返り、荒木村重は単身脱走、信長は残された荒木一族と重臣36人・女房衆122人のほか匿った高野山僧数百人を惨殺、主君小寺政職に欺かれ使者に入った黒田官兵衛は1年間有岡城の土牢に幽閉されるも半死半生ながら救出され生還(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、官兵衛反意を疑う信長が殺害を厳命した人質の嫡子黒田長政も竹中半兵衛重治に密かに匿われて無事

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1578

[耳川の戦い]伊東義祐の哀願に応じた大友宗麟が立花道雪の制止を振り切って島津討伐を号令(宗麟は道雪を疎んじて従軍させず)、キリスト教国建設を掲げ寺社を破壊しつつ日向へ攻入るが、田原親賢率いる3万余の大軍は島津義久・家久の「釣り野伏せ」戦法の前に3千名を討取られる壊滅的敗北(日本初上陸の洋式大砲「国崩し」も島津軍に分捕られ、現在でも鹿児島市の尚古集成館に陳列されている)、島津氏は日向の支配を固めて全九州に威名を轟かせ、田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を喪った大友氏の威信は地に落ち筑前の秋月種実や肥前の龍造寺隆信らの反大友勢力が勢いづく

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1578

龍造寺隆信が島原半島で抵抗を続けた大村純忠・有馬晴信(純忠の甥)を降して肥前統一を達成、家督を嫡子政家に譲るが実権は保持し、大友宗麟の耳川合戦大敗に乗じて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏に収め、九州は島津・大友・龍造寺の三国鼎立状態となる

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1578

(詳細不明)自ら「体用の間」を体得した伊東一刀斎景久が師匠の戸田一刀斎(鐘捲自斎)に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「妙剣」「絶妙剣」「真剣」「金翅鳥王剣」「独妙剣」を授受、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達す(一刀流創始)

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1579

明智光秀・丹羽長秀・羽柴秀長(秀吉の弟)が競って丹波攻略に専念、波多野秀治の八上城・赤井直正の黒井城が落城し捕えられた波多野秀治・秀尚・秀香兄弟は安土に送られ磔刑、光秀は近江坂本に加えて丹波を与えられ(合計25万石または60万石)福知山城を築いて統治拠点とする(功を焦った光秀が養育の恩ある叔母を人質に差し出し本領安堵と欺いて波多野兄弟を捕縛、そのため叔母は磔で殺されたという説があるが信憑性は低く、助命に釣られた波多野家臣が主君兄弟を捕えた可能性が高い)、若狭計略を担当した光秀与力の細川藤孝は若狭守護一色義道を討ち嫡子一色義定に娘を娶せ丹後北半を安堵して和睦し自身は丹後南半11万石を与えられ宮津城に入る

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1579

徳川家康の正室築山殿(今川一族で義元の養女)の武田勝頼への内通が露見(徳姫(織田信長の娘)の告口により徳川家康の正室築山殿(今川一族で義元の養女)の武田勝頼への内通が発覚(徳姫は唐人医師減敬との密通を含め不仲な姑の12ヶ条の罪状を列挙)、安土へ釈明に赴いた酒井忠次は不用意発言もあって嫌疑を晴らせず信長は断罪を指令・家康は築山殿を殺害し関与を疑われた嫡子信康を自害させる

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1579

耳川の大敗で反大友勢力が勢いづき大友宗麟が居竦みとなるなか筑前・筑後で孤軍奮闘する立花道雪が宗像氏・麻生氏・原田氏の反乱を鎮圧

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1580

[三木合戦]羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団(軍師黒田官兵衛)が毛利方に寝返った別所長治の播磨三木城を兵糧攻めで攻略(三木の干殺し)、御着城も落城し小寺政職は官兵衛の嘆願で助命され流浪の果てに備後鞆で野垂れ死に(嫡子小寺氏職は官兵衛に拾われる)、備前の宇喜多直家を降して播磨攻防の激戦を征した織田信長は毛利領の備中・山陰へ侵出、官兵衛は主家小寺氏滅亡により織田家専属・秀吉与力となり揖東郡福井庄1万石を与えられる

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1580

織田信長が本願寺顕如・下間頼廉を降伏させ11年に及んだ石山合戦を征し信長包囲網を完全破壊、顕如は石山本願寺を明け渡して(直後に焼亡)紀伊鷺森別院(鷺森本願寺)に退去し頼廉は各地の一向一揆を説諭し反乱を収拾、90年続いた加賀一向一揆も解体され加賀・能登を制圧した柴田勝家軍団は加賀尾山城(金沢)に佐久間玄蕃盛政・能登七尾城に前田利家を配して防御を固め上杉景勝領の越中に侵出

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1580

甲越同盟成立で上杉と北条の抗争が再燃、再び東上野が争地になると武田勝頼旗下の真田昌幸が北条領を侵食し拠点の沼田城を攻撃、城主藤田信吉の要請で北条氏直・氏邦が来援し長篠合戦の雪辱に燃える勝頼も大軍を繰出すが氏直は小田原へ退去、戦線膠着のなか真田昌幸は離間工作で藤田信吉の投降を誘い沼田城を奪取、昌幸は旧領主沼田景義を謀殺して禍根を断ち、城代に据えた同族の海野幸光・輝幸父子も無実の罪で誅殺、なりふり構わず沼田の領国化を進める

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1580

織田信長の躁鬱が激化、無断外出した女中数名を斬り殺し、最古参の佐久間信盛・林秀貞と安藤守就を過去の罪状をあげつらい突然追放(佐久間信盛は高野山にも受入れを拒否され唯一人落ち延びた奥吉野で餓死)

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1580

キリシタン大名大村純忠が長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進、領民に改宗を強制し反抗者や仏僧を迫害

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1580

土佐の長宗我部元親が明智光秀との縁(正室が斎藤利三の異父妹)を通じて織田信長と同盟し三好長治・十河存保・三好康俊ら三好一族を掃討し阿波・讃岐の大部を制圧するが(伊予の河野氏は毛利氏に属して抗戦)、全国制覇に乗り出した信長が土佐以外の放棄を要求すると元親は同盟を解消し反抗の色を立てる

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1580

織田信長が天下布武に向けた多方面作戦遂行のため家臣を再編成し軍団(方面軍)制を確立~柴田勝家軍団=北越・上杉景勝、明智光秀軍団=近畿平定後遊軍、羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団=中国・毛利輝元、滝川一益軍団=関東・北条氏政、織田信孝・丹羽長秀軍団=四国・長宗我部元親、織田信忠=美濃・尾張・飛騨の抑え、織田信雄=伊勢・伊賀方面の抑え、徳川家康(同盟国)=東海道の抑え

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1581

[高天神城の戦い]徳川家康の長期攻囲により岡部元信(今川遺臣)が守備する遠江高天神城が陥落、城兵見殺しで面目を失った武田勝頼は北条氏政領の東上野を侵して鬱憤を晴らすが諸豪・領民の動揺は収まらず、人質の織田勝長(信長の五男)を返還し織田信長と講和を図るが悉く拒否され、防御を固めるべく韮崎新府城の造営と軍団再編を始めるが過剰な戦費負担は更なる離心を招く

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1581

[新発田重家の乱]御館の乱で上杉景勝に味方した越後蒲原郡新発田城主の新発田重家(加地衆首領)が上田衆優先の論功行賞に不満を抱く反乱分子を糾合し出羽米沢城主伊達輝宗(政宗の父)・会津黒川城主蘆名盛隆を後ろ盾に反旗を掲げ新潟城に拠って独立(両者の板挟みとなった安田顕元が自害)、輝宗と連携する柴田勝家の織田信長軍団は西方から上杉領を脅かす(重家は以後7年に渡って抵抗を続けるが豊臣政権を後ろ盾に付けた景勝に滅ぼされる)、揺れる上杉家中で刃傷事件が発生し景勝は横死した直江信綱の未亡人(船)に側近の樋口兼続を娶わせ直江家の家督と越後与板城を継がせる(兼続は超無口な景勝に代わって家政を宰領し上杉家は事実上の二頭体制となる)

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1581

立花道雪が盟友高橋紹運に頼み込んで長男統虎(立花宗茂)を誾千代の婿養子に貰い受け家督を継がせる、秋月種実との石坂合戦で初陣した14歳の統虎は敵将堀江備前を討取る活躍

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1581

[天正伊賀の乱]織田信長の織田信雄・滝川一益・丹羽長秀軍団が伊賀の領国支配に抵抗する地侍・忍者の勢力を殲滅

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1581

[柳川の戦い]龍造寺隆信が筑後柳川城を奪うため島津氏への通謀を口実に蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の後嗣で娘婿)を攻撃、堅城を攻めあぐね一旦和睦するが「和解の猿楽の宴」に誘って鎮漣を騙し討ちで討取り柳川城を再攻して一族郎党を皆殺し、疑心暗鬼に陥った隆信は内部粛清を推進め赤星統家の人質(14歳の嫡子と8歳の娘)を殺害、非道の仕打ちに国人衆の離反が相次ぐ

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1581

有力者暗殺で伸上り主君浦上宗景から備前を奪い毛利から織田に転じて備前岡山城57万4千石を保った宇喜多直家が病没(享年53。死因は梅毒で面貌が崩れていたとも、見苦しく家臣らに殉死を望んだとも伝わる)、末期に後を託された羽柴秀吉(豊臣秀吉)は嫡子宇喜多秀家を厚遇し後に五大老に抜擢するが(直家は秀家の生母円融院を秀吉に献上したとも)関ヶ原合戦で西軍についた秀家は改易され子孫は徳川時代を流刑地の八丈島で過ごす

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1581

[鳥取の渇え殺し]播磨・但馬・備前を完全制圧した織田信長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団(軍師黒田官兵衛)が山陰毛利領に侵攻、山名豊国を追放して吉川経家(毛利一族)が守る鳥取城を米穀買占めによる兵糧攻めで落とし因幡全域を制圧(秀吉の母の従妹の子加藤清正が初めて戦功を立てる)、決死の覚悟で伯耆国境を守る吉川元春との対決は回避

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1581

織田信長より正式に能登一国23万石を与えられた前田利家が交通不便な七尾城を廃城し港近くに小丸山城を築城、前田利久は2千石・養嗣子の前田慶次郎利益は5千石で利家に召抱えられる

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1581

[響野原の戦い]耳川合戦の大勝で肥後国人衆を靡かせた島津義久が大軍を率いて肥後へ侵攻、人吉城主相良義陽は水俣城を包囲され降伏、すぐに阿蘇氏攻伐を命じられた義陽は宇城響野原で親友甲斐宗運と戦い討死(次男頼房が生延びて初代人吉藩主となり幕末まで相良家は存続)

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1582

キリシタン大名の大村純忠・有馬晴信・大友宗麟が名代として天正少年使節派遣

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1582

[甲州征伐・天目山の戦い]強敵上杉謙信が急逝し本願寺顕如を降して畿内を平定した織田信長が木曽福島城主木曽義昌(信玄の娘婿)の寝返りを機に武田勝頼討伐を号令、伊奈・飛騨口から織田軍、駿河口から徳川家康軍、関東口から北条氏政軍が甲斐へ殺到すると、伊奈口の武田信廉(信玄の弟)らは潰走し駿河を預かる穴山信君(同娘婿)は家康の案内役を買って出る始末、高遠城主仁科盛信(同五男)・武田信豊(同甥)は奮戦討死したが深志城主馬場昌房らは降伏開城、軍勢が2万余騎から3千に減り孤立した勝頼は韮崎新府城を落ちて郡内(大月)岩殿城へ辿着くが小山田信茂の寝返りで入城を拒まれ寵臣の長坂釣閑・跡部勝資まで逃走、天目山麓で織田勢に迫られた勝頼は嫡子信勝と一族郎党90余人を道連れに自害(享年37)、木曽・穴山(武田宗家を継承するが本能寺事変の渦中に落命)を除く武田一族を誅戮し甲斐・信濃を平定した織田軍は越中・関東へ進み滝川一益軍団は厩橋城・箕輪城を攻略して上野を制圧~北条氏邦へ内通し討伐を免れた真田昌幸は武田残党を吸収して武力を増し次男の真田信繁(真田幸村)を人質に出して信長に帰順・真田家飛領の上野沼田城には滝川儀太夫(前田慶次郎の実父)を置き防御を固める

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1582

村上武吉(能島村上水軍)と不仲な来島通総(来島村上水軍)が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の調略により織田信長へ寝返るが能島水軍・伊予河野氏に拠点を攻められ秀吉のもとへ逃亡

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1582

[岩戸の戦い]立花道雪が筑前岩戸で秋月種実・原田隆種・宗像氏貞の連合軍2千を撃破、立花宗茂(道雪の養嗣子)は薦野増時・由布惟信・小野鎮幸を率いて追撃し原田親秀の早良城、宗像氏貞の許斐山城・龍德城を攻落とす

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1582

甲州征伐を終えた織田信長が安土城に凱旋、駿河全部を与えられた徳川家康と武田勝頼を裏切って本領安堵された穴山信君が御礼言上のため安土を訪問、信長が明智光秀を接待役に就けて饗応する最中、豊臣秀吉の使者が来着し信長は中国出馬要請を快諾し光秀・細川忠興・池田信輝らに先発を命令、出陣支度のため丹波亀山城へ戻った光秀は愛宕権現に参籠し里村紹巴を招いて連歌興行を開催(愛宕百韻)、光秀が「ときは今あめが下しる五月かな」と発句すると紹巴は「花落つる流れの末を関とめて」と対句

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1582

[高松城水攻め]織田信長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団(軍師黒田官兵衛)が毛利方清水宗治が守る備中国高松城を水没させ兵糧攻め、吉川元春・小早川隆景の救援軍も手を出せず、秀吉は手柄献上のため信長に出陣を要請するが本能寺の変が勃発

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1582

[6月2日:本能寺の変]羽柴秀吉(豊臣秀吉)の要請に応じ毛利攻めに向かう織田信長が京都本能寺に滞在すると先発を命じられた明智光秀は丹波亀山城から引返し本能寺を急襲、信長は奮闘の末に自害し(享年49)嫡子織田信忠も二条新御所で自刃、空白の京都・近江を制圧した光秀は近衛前久ら公家と朝廷に献金して征夷大将軍の宣下を受け畿内を固めるべく与力の細川藤孝・忠興や筒井順慶ら諸大名に加勢を求める

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1582

[6月3日:魚津城の戦い]織田信長の柴田勝家軍団が大軍で越中魚津城を攻囲、越中・信濃・上野の三方面から織田軍が本国越後に迫ったため上杉景勝は開城和睦に応じ救援軍を引くが、柴田勝家・佐々成政が和議を破って城を攻め上杉方の守将13人悉くが自害、本能寺の変勃発で織田軍は撤退するが激怒した上杉軍に足止めされ明智光秀討伐に間に合わず

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1582

[神君伊賀越え]堺見物中に本能寺の変報を受けた徳川家康は本多忠勝の制止で殉死を思止まり茶屋四郎次郎と服部半蔵正成(伊賀上忍服部家当主)の手引きで供廻34人(酒井忠次・石川数正・井伊直政・榊原康政・大久保忠隣ら重臣は軒並み同行)と共に伊賀越えを果し伊勢白子から海路で三河岡崎城へ生還(道中別れた穴山信君は木津川畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命)、柘植清広(松尾芭蕉は柘植氏と同族の福地氏の末裔)など協力した忍者の多くは徳川家に召抱えられ伊賀同心・甲賀同心として服部半蔵の支配下に置かれる

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1582

織田信長を討った明智光秀軍が近江に侵攻、安土城を守る蒲生賢秀は殉死を覚悟するが織田将兵が逃亡し断念、嫡子氏郷と共に生駒氏ら信長の妻妾を居城の近江日野城へ護送、その2日後に光秀が安土城を占領するが蒲生父子は光秀に帰順せず、間もなく安土城は焼亡(気が動転した信長の次男信雄による放火説が有力)

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1582

[中国大返し]本能寺の変の2日後、備中高松陣で長谷川宋仁から織田信長の悲報をを受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は茫然自失となったが、軍師黒田官兵衛は「開運の好機到来」と励まし弔合戦を進言(後に秀吉から警戒される発端となる)、高松城主清水宗治切腹と備中・備後・伯耆割譲の妥協的条件で即時毛利氏と和睦し(因幡・美作は放棄)総員全速力で京畿の明智光秀討伐に向かい200kmを10日で駆け抜ける、間もなく信長討死の事実を知った毛利家では主戦論の吉川元春が追撃を主張するが小早川隆景が制止

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1582

明智光秀が与力で丹後宮津城主の細川藤孝に出陣を促すが藤孝は剃髪隠居して家督を嫡子細川忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)忠興正室ガラシャ(光秀の娘)を幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ滅亡、藤孝は早速秀吉に帰順し明智についた娘婿の一色義定(丹後北半の領主)を攻め滅ぼし丹後全域の支配を認められる

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1582

[6月13日:山崎の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍が洛外天王山で明智光秀軍と激突、光秀は近親の細川藤孝・忠興父子(細川忠興の正妻ガラシャは光秀の娘)に加え筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に見放され、織田信孝・丹羽長秀軍を糾合し兵数に勝る羽柴軍が圧勝、明智光秀は逃亡中に伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに遭い落命、近江坂本城も落城し明智氏滅亡

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1582

[神流川の戦い~天正壬午の乱]織田信長討死で甲州征伐間もない旧武田領に激震、甲斐の守将河尻秀隆が殺害され、上野には同盟を破った北条氏直が侵攻し野戦に敗れた滝川一益が厩橋城・箕輪城を放棄し逃走、越後の上杉景勝も北信濃に侵出し甲斐には徳川家康が押寄せ徳川・北条・上杉の三つ巴戦へ発展するが、新発田重家の乱勃発で上杉は信濃北部4郡で妥協し撤退、甲斐で北条氏直の大軍を破った徳川家康は北条への上野割譲および家康の娘督姫と氏直の婚姻を条件に和睦同盟、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃五ヶ国の太守へ躍進した家康は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対峙し、徳川・北条連合に対抗する上杉景勝は秀吉に誼を通じ直江兼続と石田三成が昵懇の間柄となる~武田残党を糾合して勢力を増した真田昌幸は弟の真田信尹と叔父の矢沢頼綱を派遣して上野沼田城を奪回、上杉・北条・徳川と帰服先を替えて領土保全を図るが、家康からの沼田割譲要求に反発し上杉方へ転じる

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1582

[6月27日:清洲会議]織田信長遺臣の柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉(豊臣秀吉)・池田恒興が尾張清洲城に参集、焦点の織田家の家督争いで三男織田信孝を推す勝家を抑え秀吉が幼少の嫡孫三法師(織田秀信)擁立に成功(後見に信孝)、信長直轄領の美濃は信孝・尾張は次男信雄に分与され、仇討の殊勲者秀吉は明智光秀の旧領丹波・山城・河内など28万石、筆頭家老の勝家は秀吉の旧領近江長浜12万石と信長の妹市を妻にもらい、光秀征伐に参加した丹羽・池田・堀秀政と日和見の細川藤孝・筒井順慶にも加増あり

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1582

織田信孝・丹羽長秀率いる四国征伐軍が和泉岸和田に終結し渡航直前に本能寺の変が勃発、四国征伐軍は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の明智光秀討伐に合流し阿波の三好康長は河内へ撤退、窮地を脱した長宗我部元親は阿波勝瑞城を攻落とし讃岐へ逃れた十河存保(阿波三好氏首領)を追撃して十河城に追詰める

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1582

紀伊雑賀衆首領の鈴木重秀が反織田の土橋守重を暗殺し反対派を押えるが直後に本能寺の変が勃発、父の鈴木重意・土橋党に主導権を奪われ孤立した重秀は逃亡し羽柴秀吉(豊臣秀吉)に帰順する

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1582

織田信長の茶頭を務めた千利休が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の茶頭に出仕、二束三文の粗末な茶器を名器に仕立てる錬金術と侘茶接待で秀吉の大名統治に貢献、秀吉は利休を持て囃し「利休道具」に更に箔を付けて諸大名に与える好循環を演出

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1583

羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が激しい調略戦、勝家は滝川一益・織田信孝(信長の三男)と結んで秀吉弾劾状を諸大名にばら撒き四国の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を動かして後方撹乱に励むが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に織田信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝

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1583

[賤ヶ岳の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)が柴田勝家討伐を宣言、近江長浜城等を調略して岐阜城の織田信孝と分断し、弟の羽柴秀長・蒲生氏郷(織田信長の娘婿)に軍勢を預けて滝川一益の守る伊勢にも侵攻、勝家は近江に出陣するが佐久間盛政の軍令違反や前田利家の戦線離脱により大敗(譜代家臣の乏しい秀吉は奮闘した加藤清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元を「賤ヶ岳の七本槍」と喧伝し各々3千石余を与えて部隊長に昇格させる)、秀吉は越前北ノ庄城へ追撃して勝家を討滅し(享年62。織田信長の妹市は夫勝家に殉じるが茶々・初・江の姉妹は助命確保)柴田方諸城を落として加賀・能登まで制圧、織田信孝も自害させて織田家簒奪を完遂(信孝の辞世:昔より主を内海の浦なれば むくいを待てよ羽柴筑前*自害した知多内海は源義朝が家人の長田忠致に騙し討ちにされた土地)~勝家を見限って秀吉に帰順した前田利家は北ノ庄攻めの先鋒を務め(北ノ庄城攻撃の直前に勝家と面会した利家は秀吉と仲が良いのだから必ず降伏するよう諭された、と前田家は伝えるが眉唾である)、能登の安堵に加賀二郡を加増され能登小丸山城から加賀尾山(金沢)城へ本拠を移転

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1583

毛利輝元・小早川隆景が毛利秀包(元就末子で隆景養子)を人質に差出して羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従し安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6国と備中・伯耆の西半を安堵される(宇喜多秀家領との境界線の確定は2年後)、秀吉は新たな本拠地として石山本願寺跡地に大坂城の築城を開始・総奉行に黒田官兵衛を任命

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1583

狩野派を率いる狩野永徳が豊臣秀吉に寵遇され息つく間もなく大坂城・聚楽第・内裏・八条宮家の障壁画を制作する

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1583

本願寺顕如が紀伊鷺森別院(鷺森本願寺)から和泉貝塚の末寺(願泉寺)へ移動、羽柴秀吉(豊臣秀吉)・徳川家康から一向宗の加勢を求められるが下間頼廉は武力放棄・局外中立を堅持し純粋な宗教団体としての本願寺の姿勢を打ち出すことで存続を図る

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1583

龍造寺隆信が島津氏の北上を抑えるため嫡子政家に大軍を預けて肥後へ派遣、兵数で圧倒するも田尻鑑種ら国人衆の離反が相次ぎ撤兵

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1584

徳川家康配下の真田昌幸が信濃に上田城を築き戸石城から本拠を移転、北条氏への引渡要求を拒絶する上野沼田城には矢沢頼綱を送って籠城の構えをとり、実力行使に出た北条氏邦の軍勢を巧みな防戦により撃退

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1584

[沖田畷の戦い]蒲池鎮漣一族皆殺しや無慈悲な人質殺害など龍造寺隆信の過酷な国人統治に離反が相次ぐなか、肥前島原城主有馬晴信(妹が龍造寺政家の正室)が島津義久に人質を差出して服属、島津との決戦を決意した隆信は2万5千(諸説あり)を率いて北から島原へ侵攻、肥後平定の途上で大友宗麟と対峙する島津義久は大軍を送れず弟の島津家久に兵3千(諸説あり)を託して先発隊を派遣、八代から島原へ渡り有馬勢を併せた家久は圧倒的劣勢ながら敵軍殲滅の策を講じ湿地帯の沖田畷に誘い込んで鉄砲隊で急襲、大混乱に陥った龍造寺軍は撫で斬りにされ龍造寺隆信以下成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直ら重臣の悉くが討取られる歴史的大惨敗、肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前の遺領を奪った島津義久は九州統一を果たすべく大友宗麟討伐へ転戦(隆信の嫡子龍造寺政家は島津義久に降伏し九州征伐を終えた豊臣秀吉から肥前佐賀城32万石を安堵されるが、沖田畷合戦を辛くも生延びた鍋島直茂が凡庸な政家に代わって家政を握り関ヶ原合戦では西軍に加担するも巧みな善後策でお咎め無し、龍造寺信周・長信(隆信の弟)を懐柔して政家と一子高房を滅ぼし佐賀藩簒奪を完遂する)

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1584

[小牧・長久手の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)に宣戦した織田信雄に徳川家康が加担、旧柴田勝家方の長宗我部元親(四国)・雑賀衆(紀州)・佐々成政(越中)及び北条氏政(関東)とも連携し秀吉包囲網を形成、寡勢の徳川軍が池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し強さを示すが、秀吉に調略された信雄が無断で単独講和、名目を失った家康も次男秀康(羽柴→結城)を秀吉の養子に差し出し停戦~蒲生氏郷は常に先陣駈ける奮闘で木造具正ら信雄方伊勢国人を掃討し、秀吉の小牧退却戦の殿軍も果たす

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1584

長久手の戦いで徳川家康に池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅された羽柴秀吉(豊臣秀吉)が兵2万を率いて反撃に出るが手勢5百で駆けつけた本多忠勝の妨害で攻めあぐね家康の小牧山城帰還で撤退、停戦後秀吉は忠勝の豪胆な武者ぶりを激賞

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1584

徳川家康の武将榊原康政が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の織田家簒奪を非難する檄文をばら撒き図星を衝かれ激怒した秀吉は康政の首に10万石の懸賞を掛ける

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1584

明智光秀を裏切り大和郡山城18万石を保った筒井順慶が病死し養嗣子の筒井定次が家督相続、翌年羽柴(豊臣)秀長の大和入封により伊賀上野へ移封される(定次は関ヶ原の戦いで東軍に属すが突如改易され筒井氏は滅亡する)

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1584

[沼尻の合戦]上野を制した北条氏を牽制するため常陸の佐竹義重・宇都宮国綱ら北関東勢が下野に攻入り北条方の小泉城・小山城を攻撃するが逆に長沼城を奪われ敗退、北条氏の個別撃破作戦に苦しむ義重は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に帰服して再三援軍を要請

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1584

徳川家康と同盟した長宗我部元親が羽柴秀吉(豊臣秀吉)が讃岐へ送った仙石秀久・小西行長を撃退し十河存保(阿波三好氏首領)の籠る十河城・虎丸城を攻落として讃岐を制圧、伊予へ転戦した元親は毛利軍を追払い湯築城主河野通直・宇和島黒瀬城主西園寺公広を降伏させ土佐・阿波・讃岐・伊予の四国統一を達成

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1584

立花道雪・高橋紹運が大友領の筑後奪回戦に出陣、兵1千で立花山城の守備を託された立花宗茂は兵8千で攻め寄せた秋月種実を火計・夜襲・同士討ちの計略で撃退、立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回

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1584

織田信長の娘婿で豊臣秀吉に臣従して伊勢攻略や小牧・長久手の戦いで武功を挙げた蒲生氏郷が近江日野6万石から伊勢松ヶ崎(松ヶ島城)12万石へ加転封、氏郷は四五百の森を松阪へ改名して築城し日野から近江商人を招致して大商業都市を建設

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1584

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師黒田官兵衛が播磨国宍粟郡篠の丸城5万石の大名となるが、天下人となった秀吉に次第に遠ざけられて参謀長的立場を失い豊臣政権の主導権は石田三成ら秀吉の子飼い部将へ移る

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1584

上山城主上山満兼・小国城主細川直元・庄内領主大宝寺義氏を謀略で各個討滅した山形城主最上義光が総仕上げ、羽州探題を僭称する白鳥長久を山形城に誘込んで自ら斬殺し谷地城を奪取、強豪延沢満延の嫡子光昌に娘を嫁がせて寝返りを誘い「最上八楯」を切崩すと寒河江城主寒河江高基・東根城主東根頼景を攻め滅ぼし「最上八楯」の盟主天童頼澄を天童城から追放して出羽最上郡平定を達成

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1585

肥後人吉城主相良忠房(義陽の嫡子)が死去し島津義久の人質に出されていた次弟の相良頼房が12歳で家督相続(代わりに弟の相良長誠が薩摩出水へ人質に送られる)、犬童頼安・深水長智が家政を執り球磨勢を率いて島津氏の九州平定戦に従う

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1585

羽柴秀吉(豊臣秀吉)が藤原氏五摂家筆頭の近衛前久の猶子となり関白に就任、微賤の出で譜代家臣の無い秀吉は弟の羽柴秀長を大和郡山城100万石(筒井定次は伊賀へ転封)に封じ加藤清正・福島正則・石田三成・小西行長ら子飼い武将に官位・官職を与え加増して大名格に引上げる

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1585

[紀州征伐]織田家を掌握し徳川家康と停戦した羽柴秀吉(豊臣秀吉)が天下統一戦を開始、自ら10万を率い小牧・長久手合戦で徳川に加勢した雑賀衆(太田城)・根来衆(根来寺)を攻め滅ぼし和泉・紀伊を平定、逸早く秀吉に帰順し小牧・長久手合戦で鉄砲頭を務めた鈴木重秀は父の鈴木重意を説いて降伏を促し子の鈴木孫一郎を秀吉の人質に出して忠誠を示すが秀吉は後顧の憂いを絶つべく藤堂高虎に命じて重意を謀殺、ここに紀伊の鉄砲傭兵集団は滅亡し僅かに鈴木重朝(重秀の後継者)らが体制秩序で命脈を保つ

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1585

[四国攻め]紀州征伐に並行して羽柴秀吉(豊臣秀吉)が総大将羽柴秀長・軍監黒田官兵衛・三好秀次・宇喜多秀家・小早川隆景の総勢10万余を派兵し阿波・讃岐・伊予の三方から四国へ侵攻、長宗我部元親は阿波白地城に籠って抵抗するが圧倒的大軍の前に為す術なく土佐一国の安堵を条件に降伏、秀吉は没収領の伊予を小早川隆景・讃岐を仙石秀久と十河存保・阿波を蜂須賀家政に与える

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1585

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の命により毛利輝元・小早川隆景から所領と来島村上水軍を取戻した来島通総が四国伊予攻めに従軍し旧主河野氏の討滅に働いて伊予風早郡1万4千石の大名に栄達(のち通総は朝鮮役で戦死、後嗣の来島長親は関ヶ原の戦いで西軍に属すが福島正則の取成しで赦され豊後森藩1万4千石を立藩)、秀吉に反抗し従軍命令に背いた村上武吉(能島村上水軍)は小早川に攻められて根拠地の能島を奪われ備後竹原へ移される(後嗣の村上元吉・景親は毛利家に仕え子孫は長州藩船手組組頭として存続)

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1585

[第一次上田合戦]羽柴秀吉(豊臣秀吉)への対抗上北条氏との同盟強化を望む徳川家康が上野沼田領の引渡しを拒絶する真田昌幸を攻撃、昌幸は一度寝返った上杉景勝に次男の真田信繁(真田幸村)を人質に送って援軍を乞い、信濃上田城に来襲した徳川軍を奇計で壊滅させ沼田城を襲った北条氏邦も撃退するが、再び上杉を見限って天下人秀吉に鞍替え(4年後に真田信繁は越後を脱出し岳父大谷吉継を通じて人質として秀吉に近侍する)、武田信玄の庶子海野竜宝を担ぎ出して徳川領を侵食するも秀吉の仲裁で家康と和睦し嫡子真田信之の妻に本多忠勝の娘小松姫(家康養女)を迎える

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1585

[富山の役]賤ヶ岳の戦い不参加で本領安堵された越中の佐々成政(柴田勝家与力)が小牧・長久手の戦いに呼応し前田利家の加賀へ攻め込むが撃退され(末森城の後巻)羽柴秀吉(豊臣秀吉)と徳川家康の和睦停戦により孤立、成政は厳冬の「さらさら越え」で浜松へ赴き家康に再挙を促すが断られ越中を秀吉・利家に攻囲され降伏、秀吉は成政の越中領を没収するが(新川一郡のみ安堵)命は助けて御伽衆に採用、旧佐々領を与えられた前田利家は加賀・能登に越中を併せ三国の太守となる

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1585

[阿蘇合戦]島津義弘の軍勢が阿蘇惟光を打破り肥後平定を達成、九州統一を目論む島津義久は大友宗麟への攻勢を強め豊後・筑前へ殺到

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1585

島津氏と反大友勢力の猛攻に晒された立花道雪が立花宗茂・高橋紹運・朽網鑑康を率いて必死の防戦、豊後へ長駆して大友宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家(宗麟の次男)の援軍が戦線離脱するなか道雪・紹運は高良山に布陣して3倍の敵軍を撃退、島津軍を押し返す勢いを示すが柳川城攻撃中に高良山陣中で無念の病死(享年73。「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言したが養嗣子の宗茂は敵中に残し置くのを儚み遺骸を伴って立花城へ帰還)、大黒柱を喪った大友氏は完全に死に体となり島津方への寝返りが相次ぐ

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