りゅうぞうじ たかのぶ
龍造寺 隆信
1529年~1584年
70
点
一族虐殺を生延びて曽祖父から家督を継ぎ大友宗麟の力添えで東肥前支配を確立、耳川合戦の漁夫の利をさらって肥前統一を果し大友領の筑前・筑後・肥後北部・東豊前を侵食するが、疑心暗鬼の国人統治で離反が相次ぎ沖田畷の戦いで島津家久に討取られた九州下剋上の第一人者
同じ時代の人物
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きっかわ もとはる
吉川 元春
1530年~1586年
12歳の初陣から64戦無敗を誇り父毛利元就の山陰経略を担って出雲尼子氏を滅ぼし三度の尼子再興軍を粉砕した中国地方最強武将、天下人秀吉への臣従を拒むも毛利家を守るため最期に膝を屈す
ちょうそかべ もとちか
長宗我部 元親
1539年~1599年
父長宗我部国親の遺志を継いで土佐を平定し本能寺の変に乗じて四国統一を果した智勇兼備の名将だが、豊臣秀吉に屈して土佐以外の所領を没収され後嗣盛親が関ヶ原合戦・大坂陣に敗れ滅亡
ながお ためかげ
長尾 為景
1489年~1543年
越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父
もがみ よしあき
最上 義光
1546年~1614年
伊達氏から独立し謀略を駆使して出羽国人を切従え、関ヶ原の戦いで上杉景勝を撃退し山形藩57万石に躍進した羽州探題の名門大名、愚孫最上義俊が家臣団の総スカンを喰い改易に処された(最上騒動)
ほんだ ただかつ
本多 忠勝
1548年~1610年
武田信玄・豊臣秀吉も羨んだ「徳川四天王」最強武将
まるめ ながよし(くらんど)
丸目 長恵(蔵人)
1540年~1629年
勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念