84 ayukawayoshisuke

鮎川あゆかわ 義介よしすけ

1880年~1967年

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井上馨の姉の孫で長州閥政商の雄、買収と経営再建で日産コンツェルンを築き満州の重工業開発を牽引したが早期撤退の大英断で財閥崩壊を免れた日産・日立グループ創業者

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家系

鮎川家は中級以上の長州藩士だったが、明治維新後に没落し一家は困窮した。鮎川義介は、母方の大叔父(祖母常子の弟)井上馨の庇護下で成長し出世コースに乗った。鮎川義介には3人の姉妹があり、妹のキヨは久原財閥創始者の久原房之助に、フジは「福岡の炭鉱王」貝島太市に嫁いだ。鮎川義介は、高島屋創業家の飯田二郎の長女美代を妻に迎え、二男一女をもうけた。長男の鮎川弥一は、第二次大戦後に鮎川義介が興した中小企業助成会を引継ぎ、テクノベンチャーに改組してベンチャーキャピタル事業を行ったが、日産・日立の事業には関与できず鮎川家は創業家の名を留めるのみとなった。テクノベンチャーを承継した子の鮎川純太は「日産創業家」の名声を支えに細々と世過ぎするが、日本振興銀行を経営破綻させ実刑を受けた木村剛など怪しい人脈と繋がり、また杉田かおるとの離婚騒動がマスコミを賑わせた。義介次男の鮎川金次郎は、雪村いづみとの婚約を一方的に宣言して話題を集め、史上最年少の30歳で参議院議員に当選するも選挙違反容疑で議員辞職に追込まれ、同じく参議院に議席を得ていた父の鮎川義介も引責辞任する羽目になった。義介娘の春子が嫁いだ西園寺不二男は西園寺公望の孫で、ゾルゲ事件で逮捕され廃嫡された兄の西園寺公一に代わり37代当主を継いだ人物である。長州閥政商の鮎川義介には著名人の縁戚が多く、大叔父井上馨の閨閥関係のほか、岸信介・佐藤栄作兄弟は縁戚で松岡洋右はその親戚、日本水産創業者の國司浩助は兄弟同然に育った幼馴染である。

井上氏は清和源氏の一流で安芸に土着し国人領主となったが、同格の国人から勢力を伸ばした毛利弘元の家臣団に組込まれた。井上元兼ら「井上党」は弘元次男の毛利元就の家督相続を援けたことで主家を凌ぐ権勢家となり、専横を憎む元就の謀略により粛清された。ただ、一門の多い井上党のなかには粛清を免れ存続を赦された家もあり井上就在もその一つ、子孫の井上馨の家は家禄100石の大組士で、高杉晋作(200石)・桂太郎(125石)らと同じ中級藩士であった。井上馨は志道家に入嗣した後に井上家に復籍したが、志道家も毛利元就の代から続く譜代長州藩士で禄高は250石であった。井上馨は男児を生さず、兄井上光遠の次男勝之助を養嗣子とし侯爵井上家を継がせたが、勝之助も男児に恵まれなかった。男系の幸薄い井上馨だが閨閥づくりに励み、特に桂太郎とは濃い縁戚関係を結んだ。桂太郎の次男三郎を実娘千代子の婿養子にとって侯爵井上家の3代目とし、桂太郎の最後(5番目)の妻可那子を養女にした。井上三郎・千代子夫妻の間に生れた井上光貞は、昭和初期に『日本国家の起源』『日本の歴史第一巻・神話から歴史へ』など一般読者に分り易い概説書を著して古代史ブームに火をつけ、大戦後はマルクス主義全盛期にあっても実証主義的立場を貫き歴史学に独自の方法を築いた。「光貞史学」の根底には、常に貴族の誇りが貫かれていると評する人もいる。男児の無い伊藤博文は井上馨の甥の博邦に公爵伊藤家を継がせ、原敬は井上馨の後妻武子の連子(実父は薩摩人の中井弘)貞子を妻に迎えたことで出世し、鮎川義介は母方の大叔父(祖母常子の弟)井上馨の庇護下で成長し日産コンツェルン創業者となった。閨閥家の井上馨は養子女縁組を乱発したが、岸信介・佐藤栄作兄弟の大叔父(母である佐藤茂世の伯父)井上太郎も養子の一人といわれる。

西園寺家も生家の徳大寺家も左大臣まで出せる清華家(他に久我・三条など7家)で、摂関を出せる五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に次ぐ上流公家の家柄であった。西園寺師季に男児が無かったため、徳大寺家次男の公望が入嗣した。西園寺公望の実兄で生家を継いだ徳大寺実則は、謹厳実直な性格で、生涯のほとんどを明治天皇の侍従長として過ごした。実弟には学校法人立命館理事の末弘威麿、住友財閥を継いだ住友友純(隆麿)がいる。西園寺公望は花柳界で大いに蕩尽したが、終生妻帯しなかった。パリ講和会議で首席全権を務めた西園寺公望は内妻の奥村花子を帯同し話題となった。他にも何人かの芸者あがりを内妻とし数人の庶子をもうけている。西園寺公望に嗣子は無く、公爵毛利元徳(最後の長州藩主)の八男八郎を庶娘の新の婿養子に迎え公爵を継がせた。西園寺八郎の長男西園寺公一は「ゾルゲ事件」に連座し国家機密漏洩罪で懲役1年6ヶ月(執行猶予2年)の判決を受けたため廃嫡され、第二次大戦後に八郎が没すると三男の西園寺不二男が家督を継いだ(公爵の襲爵手続きはせず)。西園寺不二男は、日産コンツェルン創業者の鮎川義介の娘春子を妻に迎え、日産興業社長などの名誉職を与えられた。

長州藩士の佐藤信寛は明治維新後に島根県令に任じられ長州閥の伊藤博文らと誼を通じ、弟の太郎を井上馨の養子に出したといわれ(陸軍少佐井上太郎)、日産コンツェルン創業者の鮎川義介も佐藤家の親戚である。信寛の嫡子で山口県議会議員を務めた佐藤信彦は、娘の茂世の婿養子に同郷田布施の岸要蔵の三男で山口県庁官吏をしていた秀助を迎え分家を立てさせた。田布施に戻り酒造業を営んだ佐藤秀助は、茂世夫人との間に5子を生し、長男の市郎に佐藤家を継がせ、次男の信介は実兄岸信政の一人娘良子の婿養子に出し、三男の栄作は生家に留めた。佐藤秀助の妹さわは山口中学教諭の吉田祥朔に嫁ぎ、長男の吉田寛は吉田茂(家系は別)の長女桜子と結婚している。さて、岸信介・良子夫妻は一男一女を生し、長男の岸信和は地元の宇部興産の勤め人となったが(西部石油会長へ転出)、長女の洋子が嫁いだ安倍晋太郎が政界へ進み岸信介の後継者となった。なお、岸信和に子が無かったため、安倍晋太郎の兄信夫が入嗣し岸家を継いでいる。安倍晋太郎は、東大法学部を出て毎日新聞記者となったが、石橋湛山内閣で外相の任にあった岸信介の秘書となり洋子と結婚、岸の首相在職中に亡父安倍寛の地盤を継ぎ(旧山口1区)衆議院議員に初当選した。安倍晋太郎は、1963年の選挙で落選し岸信介を慌てさせたが、次回選挙から没するまで議席を守り(当選11回)自民党幹事長・通産相・外務相などを歴任した。岸信介直系の「政界のプリンス」安倍晋太郎は、脇が甘いので「プリンスメロン」と揶揄されつつ、共に「ニューリーダー」と称された竹下登・宮澤喜一を凌ぎ次期総理総裁は確実といわれたが目前で病没した。地盤を継いだ次男の安倍晋三は、首相となって亡父の無念を晴らし、祖父岸信介が果たせなかった憲法改正・再軍備に挑んだ。さて、岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父(茂世の兄)佐藤松介の妻藤枝は松岡洋右の妹であり、娘の寛子は従兄弟の佐藤栄作に嫁いで二男を産み、次男の佐藤信二が栄作の地盤を継いで衆議院議員となった。