5 saigo

さいごう たかもり

西郷 隆盛

1828年~1877年

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島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在

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Kakei

西郷氏は、肥後菊池氏の末裔を称し、南朝の功臣で九州探題今川了俊に敗れた菊池武光から七代目の武盛が鹿児島へ移住して西郷姓を名乗り、元禄時代の西郷九兵衛の代に島津氏に仕えたといい、西郷隆盛は九兵衛から十代目である。なお菊池氏は、戦国時代まで肥後の有力豪族として残ったが大友宗麟の侵攻によって滅ぼされ、嫡流は肥後球磨郡米良山へ逃れ米良氏を称したとされる。西郷氏は薩摩藩城下士とはいえ家格は下から二番目の御小姓組であり、西郷吉兵衛は御勘定方小頭の微役のうえに子沢山で生活は苦しく、子の西郷隆盛は貧乏ぶりを詩句で回想しつつ生涯清貧を貫いた。隆盛次弟の西郷吉二郎は戊辰戦争で四弟の西郷子兵衛は西南戦争で戦死したが、三弟の西郷従道と従弟の大山巌は西南戦争で官軍に属し大将・元帥に栄達し薩摩閥を率いた。日本海軍の草創期を支えた川村純義は親戚である。西郷隆盛は、奄美大島で娶ったアイガナとの間に菊子と菊次郎をもうけたが、現地妻を連れ帰ることが禁止されていたため母子は奄美大島に残された。島津久光に赦され沖永良部島から鹿児島へ生還した西郷隆盛は、イトを娶って寅太郎・牛次郎・酉三の三児を生した。西南戦争で隆盛が斃れた後、イトは三児のほかにアイガナの二子を引取り、さらに義弟吉二郎の家族も身を寄せたため12人の大家族を切盛りした。嫡子の西郷寅太郎は、プロシアに留学して陸軍士官学校に学び、帰国して陸軍士官となり、隆盛の名誉回復に伴い侯爵を受爵した。弟の牛次郎は日本郵政に入り、酉三は肺結核で早世した。庶子の菊子は大山誠之助(大山巌の弟)に嫁ぎ、西郷菊次郎は西南戦争で片足を失うもアメリカへ留学し宮内省式部官、台湾総督府勤務を経て第二代京都市長を6年勤め京都の近代化を牽引した。寅太郎から家督と侯爵位を継いだ三男の西郷吉之助(隆盛の通称)は、学習院から東北帝国大学に学び、銀行員を経て1936年貴族院議員就任、戦後も第一回参議院選挙で当選し地元の圧倒的な支援を得て四期連続当選した。吉之助は第二次佐藤栄作内閣に法相として入閣したが、手形乱発に絡む恐喝容疑で政界を追われた。吉之助の子息はいずれもサラリーマンとなった。

西郷従道の直系子孫は公家や旧大名家との間に相当な閨閥を築いた。従道の侯爵位と家督を継いだ嫡子の西郷従徳は、陸軍歩兵大佐から貴族院議員となり、公爵岩倉具視の孫娘豊子を妻に迎えた。嫡子の西郷従吾は、陸軍大佐から第二次大戦後は高名な軍事評論家として活躍した。妻の静子は旧鳥取藩主池田家の出で徳川慶喜の孫娘、娘の桜子は公爵岩倉具張(具視の嫡孫)に・不二子は男爵古河虎之助(古河財閥創業者の古河市兵衛の実子で3代目当主)に嫁がせた。西郷従吾の姉妹である道子・竹子・薫子はそれぞれ旧華族の名門に嫁いでいる。

西郷隆充は嫡子の西郷吉兵衛(隆盛)に家督を継がせ、次男の綱昌は無嗣の大山綱毅に入嗣させた。西郷家も大山家も鹿児島城下加治屋町に居住する薩摩藩の下級藩士である。西郷吉兵衛の嫡子が西郷隆盛で三男が西郷従道で、大山綱昌の次男が大山巌、巌弟の大山誠之助は西郷隆盛が奄美大島でアイガナに産ませた庶子の菊子を娶っている。大山巌は、「精忠組」の先輩である吉井友実の娘沢を娶って四女を生し、沢の死後に捨松(会津藩士山川重固の娘)を後妻に迎え二男一女をもうけた。山川捨松は岩倉使節団の随員に加わり津田梅子(津田塾創始者)と共に米国留学した帰国子女の草分けで、大山巌夫人として社交界で活躍し「鹿鳴館外交」を彩った。大山捨松が産んだ嫡子の大山高は海軍へ進んだが航海練習中に軍艦「松島」が沈没事故を起し遭難死、次男で陸軍人となった大山柏が公爵大山家を継いだ。大山柏の妻武子は公爵近衛文麿の妹で、嫡子の大山梓は海軍主計大尉から第二次大戦後歴史学者となり、次男の大山桂は軍人にならず東大理学部を出て生物学者となった。