34 itohirofumi

いとう ひろふみ

伊藤 博文

1841年~1909年

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高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家

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Kakei

位人臣を極めたした伊藤博文には藤原姓とか河野道有の子孫といった付会がなされたが、伊藤家も父の生家である林家も庶民の家柄である。父の林十重蔵は周防熊毛郡の農民だったが「中間」水井武兵衛に入嗣し、養父が足軽伊藤弥右衛門に入嗣したため伊藤姓となった。足軽は中間よりワンランク上だが、いずれも藩士の雇人たる卒族身分であり、実態は農民同然で武士扱いされなかった。吉田松陰の松下村塾に学んで正義党に連なり木戸孝允の計いで長州藩士となった伊藤博文は、「松下村塾の四天王」入江九一の妹すみ子を娶り新婦は伊藤家に住したが、新郎は間もなくイギリス留学へ旅立ち翌年帰国してから初対面、一夜限りの契りを交した後は一度も家に寄り付かず、結婚3年ですみ子を離縁し下関稲荷町の置屋「いろは」の芸妓(体裁は養女)の梅子を落籍せて妻とした。罪滅ぼしのつもりか、伊藤博文は明治維新後にすみ子の再婚相手に官職を世話している。長女の生子が嫁いだ末松謙澄は、新聞記者から政界入りして岳父の伊藤博文に仕え、伊藤内閣で逓信大臣・内務大臣を務め枢密顧問官として大日本帝国憲法の策定にあたった。末松謙澄が幕末長州藩の動向を鮮明に著した『防長回天史』は今なお史料的価値が高い。男児を授からなかった伊藤博文は井上馨の甥の博邦を養嗣子に迎え公爵伊藤家を継がせた。伊藤博邦は、ドイツ留学を経て宮廷官僚となり貴族院議員を務めた凡庸な人物、妻たまの父親は横浜屈指の豪商で明治政府のスポンサー役を果した高島嘉右衛門である。博邦嫡子の伊藤博精の妻は高橋是清の孫娘福子、次男の伊藤博春は旧長州藩家老の清水家に入嗣し、次女の十四子は三共製薬の創業家である塩原家に嫁いだ。伊藤博文は男児が無かったこともあり閨閥や家産に恬淡だったが、伊藤家は現代でも知る人ぞ知る名門である。

井上氏は清和源氏の一流で安芸に土着し国人領主となったが、同格の国人から勢力を伸ばした毛利弘元の家臣団に組込まれた。井上元兼ら「井上党」は弘元次男の毛利元就の家督相続を援けたことで主家を凌ぐ権勢家となり、専横を憎む元就の謀略により粛清された。ただ、一門の多い井上党のなかには粛清を免れ存続を赦された家もあり井上就在もその一つ、子孫の井上馨の家は家禄100石の大組士で、高杉晋作(200石)・桂太郎(125石)らと同じ中級藩士であった。井上馨は志道家に入嗣した後に井上家に復籍したが、志道家も毛利元就の代から続く譜代長州藩士で禄高は250石であった。井上馨は男児を生さず、兄井上光遠の次男勝之助を養嗣子とし侯爵井上家を継がせたが、勝之助も男児に恵まれなかった。男系の幸薄い井上馨だが閨閥づくりに励み、特に桂太郎とは濃い縁戚関係を結んだ。桂太郎の次男三郎を実娘千代子の婿養子にとって侯爵井上家の3代目とし、桂太郎の最後(5番目)の妻可那子を養女にした。井上三郎・千代子夫妻の間に生れた井上光貞は、昭和初期に『日本国家の起源』『日本の歴史第一巻・神話から歴史へ』など一般読者に分り易い概説書を著して古代史ブームに火をつけ、大戦後はマルクス主義全盛期にあっても実証主義的立場を貫き歴史学に独自の方法を築いた。「光貞史学」の根底には、常に貴族の誇りが貫かれていると評する人もいる。男児の無い伊藤博文は井上馨の甥の博邦に公爵伊藤家を継がせ、原敬は井上馨の後妻武子の連子(実父は薩摩人の中井弘)貞子を妻に迎えたことで出世し、鮎川義介は母方の大叔父(祖母常子の弟)井上馨の庇護下で成長し日産コンツェルン創業者となった。閨閥家の井上馨は養子女縁組を乱発したが、岸信介・佐藤栄作兄弟の大叔父(母である佐藤茂世の伯父)井上太郎も養子の一人といわれる。