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鍋島なべしま 直正なおまさ

1815年~1871年

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大老井伊直弼の暗殺で中央政局から離脱するも佐賀藩の富国強兵と洋式軍備導入に専念し、戊辰戦争が起ると幕末最強の最新兵器を投入し「薩長土肥」に滑り込んだ開明的専制君主

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家系

鍋島氏は、宇多源氏佐々木氏を称し、肥前鍋島に住した鍋島経秀を家祖とする。鍋島直茂は、主君で従兄の龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死した後、嫡子の龍造寺政家の後見人となり豊臣秀吉を後ろ盾に実権を掌握、関ヶ原合戦では嫡子の鍋島勝茂を西軍(伊勢守備隊)に参加させつつ徳川家康に誼を通じ、東軍勝利で逸早く恭順し黒田官兵衛と共に立花宗茂の筑後柳川城などを攻撃し肥前佐賀藩35万7千石を安堵された。鍋島直茂は、龍造寺信周・長信(隆信の弟)を懐柔し龍造寺政家・高房父子に禅譲を迫り主家簒奪を果した。龍造寺高房は江戸桜田藩邸で正室(鍋島直茂の養女)を刺殺し自殺、龍造寺の嫡流は断絶したが、龍造寺信周・長信は準鍋島一門として存続した。9代佐賀藩主の鍋島斉直は、破綻寸前の藩財政を再建するため膨大な費用が掛る長崎警備の任務を熊本藩へ移すべく画策したが失敗、後にフェートン号事件が起り幕府から警備不備の責任を問われ100日間の閉門を命じられた。鍋島斉直は、幕閣に取入るため嗣子の鍋島直正の正室に将軍徳川家斉の娘盛姫を迎え、これが没すると徳川斉匡の娘筆姫を継室に迎えたが、巨費を投じた縁戚外交は佐賀藩の財政悪化に拍車を掛け、大火による江戸藩邸消失、佐賀藩で1万人の死者を出したシーボルト台風で気力を失い隠居した。佐賀藩主を継いだ鍋島直正は、従兄弟の薩摩藩主島津斉彬と競うように藩政改革と洋式軍備導入を推進し、大老井伊直弼に取入って中央政界に進出したが、桜田門外の変で佐賀に引篭り次男の直大に藩主を譲った。鍋島直大は、最強軍備を誇る佐賀藩兵を率いて戊辰戦争を転戦し、維新後は弟の直虎・直柔と共にイギリスへ留学、侯爵に叙され元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員を歴任した。鍋島直大の女系は皇室との縁が深く、次女の伊都子は梨本宮に、四女信子の娘勢津子は秩父宮に入輿、勢津子の娘方子は大韓帝国最後の皇太子李垠の妃である。なお、正田美智子の母方の副島氏は佐賀藩家老の多久氏(龍造寺長信の子孫)の家臣で小和田雅子の母方の江頭氏は佐賀郷士「手明鑓」、鍋島信子・勢津子母子は陪臣筋である美智子妃の入輿・立后に猛反対した。

龍造寺氏は、平安末期に肥前小津郡龍造寺の地頭となった高木季家を祖とし、室町後期に主家の九州千葉氏と共に肥前守護少弐氏の被官となったが、少弐政資・高経父子が宿敵大内義興に攻め滅ぼされ次男資元は生延びるも少弐氏は肥前の一勢力に没落した。龍造寺家兼は、大内義隆(義興の嫡子)が派遣した杉興連の大軍を撃退して武名を挙げ(田手畷の戦い)、大内義隆(義興の嫡子)と通謀して主君資元を滅ぼし東肥前の戦国大名へ台頭したが、肥前の領袖有馬晴純の助勢を得た少弐一門の馬場頼周の反撃に遭って龍造寺家純・家門の二児と孫4人を殺害された。筑後へ逃れた家兼は柳川城主蒲池鑑盛の力添えで肥前へ攻め戻り頼周・政員父子を討って仇討ちを果したが間もなく病没、虐殺を逃れた曾孫の龍造寺隆信が還俗して家督を継いだ。龍造寺隆信は、後嗣無く死去した龍造寺胤栄の未亡人を娶って龍造寺本家を横領し、政家・家種(江上氏養子)・家信(後藤氏養子)の三児をもうけた。娘は蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の嫡子)に嫁がせたが、隆信は肥後柳川上を奪うため鎮漣を謀殺した。沖田畷の戦いで隆信が斃れた後、嫡子の龍造寺政家は島津義久に降伏し九州征伐を終えた豊臣秀吉から肥前佐賀城32万石を安堵されたが、沖田畷合戦を辛くも生延びた鍋島直茂(隆信の従弟で筆頭重臣)が凡庸な政家に代わって家政を握り関ヶ原合戦では西軍に加担するも巧みな善後策でお咎め無し、龍造寺信周・長信(隆信の弟)を懐柔して政家と嫡子高房に禅譲を迫り佐賀藩簒奪を完遂した(直茂は龍造寺遺臣を慮って藩主には就かず嫡子鍋島勝茂を初代藩主に据えた)。龍造寺高房は江戸桜田藩邸で妻(直茂の養女)を刺殺して自殺を図るも果たせず、佐賀に戻って自殺を遂げ、僅か1ヵ月後に政家も死去した。こうして龍造寺隆信の嫡流は滅ぼされたが、鍋島氏の宥和政策により信周・長信の子孫は龍造寺四家として鍋島一門に準じる優遇を受けた。