29tachibana michiyuki

立花たちばな 道雪どうせつ

1513年~1585年

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百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱

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家系

戸次氏は豊後大友氏の庶流で、初代大友能直の嫡子親秀の次男重秀を祖とし所領の豊後大分郡戸次(べっき)から名字を採ったが、戦国争乱のなかで本貫地の戸次荘も失うほどに零落した。お家再興に燃える戸次鑑連は13歳の初陣以来抜群の武功を示して大友家の大黒柱となり、筑前糟屋郡立花城主となって立花を名乗り、主君大友宗麟が入道した際に自らも出家して道雪と号した。立花道雪は、複数の妻妾を抱えたが二女しか授からず成人した誾千代の婿養子に立花宗茂を迎えた。立花宗茂は、元の名は高橋統虎といい、実父の高橋鎮種(紹運)は道雪と共に大友家の筑前・筑後支配を支えた勇将で岩屋城に籠って島津軍の猛攻に屈せず城兵763人全員が玉砕して見事な最期を遂げた(岩屋城の戦い)。高橋氏は藤原純友討伐で活躍した大蔵春美の子孫で原田・秋月・田尻・三池氏などと同族、大友宗麟に反逆した高橋鑑種が所領を没収され(鑑種は実家の一萬田家の嫁を宗麟が強奪したため激怒して謀反したという)宗麟の命で吉弘鑑理の次男紹運が高橋の名跡・所領と岩屋城・宝満山城を引継いだ。長男の立花宗茂に代わり高橋家を継いだ次男の直次は、紹運戦死後に宝満山城を降伏開城して島津氏の捕虜となり、九州征伐後は豊臣秀吉に仕え兄宗茂に従って肥後国人一揆や朝鮮出兵で武勇を示し、関ヶ原合戦では宗茂と共に西軍に加担し改易されるも、大坂陣で徳川方に参じて5千石の旗本に召抱えられ立花に改姓、嫡子立花種次が筑後三池藩1万石を立藩した。92代総理大臣の麻生太郎は子孫であるという。立花直次は柳生宗矩に兵法を学び新陰治源流を創始した剣豪であった。立花宗茂は家政に口を出す「女大名」誾千代を疎んじ別居、誾千代は子を生さなかったので道雪の血統は断絶した。改易後僅かな従者と3年余の流浪生活を送った立花宗茂は、武勇を惜しむ本多忠勝の世話で5千石の旗本に取上げられ、徳川秀忠に無骨を愛されて陸奥棚倉藩1万石を賜り大名に復活、大坂陣で活躍し10万9千石で旧領の筑後柳川藩に返咲き、立花直次の四男忠茂に柳川藩を継がせた。宗茂にも実子は無く惜しくも血統は途絶えた。

大友氏は、鎌倉時代初期から九州北部を支配した名門で、初代能直は母方の波多野氏が所領する相模大友荘から名字を採り、源頼朝に仕えて豊後・筑後守護と鎮西奉行に任じられ島津氏・小弐氏と並ぶ九州御家人の束ね役となった(能直には頼朝落胤説があるが島津忠久と同じく権威付けの仮冒とみられる)。元寇以来の九州領主の土着推進政策に従って大友一族も移住を進め、南北朝時代に北朝に属した大友親世が苦戦の末に南朝勢力の盟主菊池武朝を撃破、九州平定が成ると豊前・肥前・肥後・筑前を併せて6ヶ国の太守となり今川了俊から九州探題職を奪った。戦国時代になると周防の大内義興が九州への介入を強め、小弐氏は敗亡の道を辿ったが、19代大友義長は将軍足利義澄の権威を利用して豊後・筑後を保ち、20代義鑑の代に戦国大名へ脱皮した。大友義鑑は武勇に加え南蛮貿易を推進した経世家であったが、長子義鎮(宗麟)を廃嫡して末子到明を立てようと企て反対派重臣を誅殺、反撃に遭って到明と後妻諸共殺害された(二階崩れの変)。首謀者疑惑が濃厚ながら立花道雪らの後見で家督を継いだ大友宗麟は、宿敵大内氏の滅亡に乗じて6ヶ国の太守に返咲くも、耳川の惨敗で屋台骨が崩れ島津氏に滅亡寸前まで追詰められたが、九州征伐後に嫡子義統が豊後一国37万石を安堵された。身内に非情な大友宗麟は、大友氏から離脱した叔父の菊池義武を謀殺し、大内氏の傀儡当主に提供した弟の義長を捨殺しにしている。大友義統は、戸次川合戦と朝鮮役碧蹄館合戦で敵前逃亡を繰返し豊臣秀吉に「臆病者」の落胤を押されて改易(守護大名大友氏滅亡)、関ヶ原の戦いで西軍総大将毛利輝元の援助を得て九州で大友再興軍を起すが黒田官兵衛に一蹴され(母里多兵衛は妹婿)、流刑地の常陸宍戸で病没した。嫡子大友義乗は徳川家康に拾われたが次の義親の代で無嗣断絶となった。義統の次女は東福門院和子に仕えて佐古の局となり、その嘆願で義統の三男松野正照の子義孝が大友氏の再興を許され子孫は高家旗本として幕末まで命脈を保った。