13 takayoshi

きど たかよし

木戸 孝允

1833年~1877年

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吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作の遺志を継ぎ薩長同盟して討幕を仕上げた長州藩首領にして「維新の三傑」、明治維新後3年で最難関の廃藩置県を成遂げ憲法制定を志したが大久保利通と対立し西南戦争の渦中に病没

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Kakei

和田氏は毛利元就の七男天野元政の末裔を称した長州藩医の家柄で、木戸孝允(小五郎)は、和田昌景の嫡子だが生来病弱で成人は無理と考えられたため異母姉の婿養子和田文讓が和田家を継ぎ、7歳のとき和田家の向いに住む桂九郎兵衛孝古が無嗣没したため末期養子に入り桂小五郎となった(萩城下に生家の和田邸が現存)。桂氏は、毛利元就を支えた桂元澄から続く長州藩の名門で、小五郎の家は庶流ながら家禄150石の中級藩士で養父は膨大な遺産を遺した。なお同族の桂太郎は、維新期には無名の若輩ながら木戸孝允のお陰で王政復古の賞典禄下賜に名を連ね(250石)ドイツ留学を経て陸軍長州閥に入り首相に栄達した。さて木戸孝允は、長州藩・明治政府の領袖のうえ男前で大変女性にもてたが、禁門の変後に窮地の木戸を援けた愛人の幾松(京都三本木の遊女)を正妻に迎え苦労に報いた(木戸松子)。しかし幾松は子を生さず、木戸孝允は妹の治子と来原良蔵の次男正二郎を養嗣子に迎え、孝允没後に木戸正二郎は侯爵に叙されたが急逝、兄の孝正が候爵木戸家を承継した。木戸孝正は、木戸孝允が妾に産ませた一人娘の好子(生母は不明)を妻としたが新婦は早世し(孝允の血統は断絶)、山尾庸三の娘寿栄子を後妻に迎え幸一をもうけた。候爵木戸幸一は、長州閥の御曹司として内務大臣などを経て内大臣に就任し天皇側近として宮廷政治を宰領した。木戸幸一は、軍部のテロに腰砕けとなり「虎穴に入らずんば虎子を得ず」などといって東條英機を首相に指名、東京裁判でA級戦犯となり終身禁固刑に処されたが投獄を免れた。昭和天皇と自らの弁護に躍起の木戸幸一は、GHQに悪名高い『木戸日記』を提出して軍部の横暴を誇張し「戦時中、国民の戦意を破砕する事に努力してきました」とまで哀訴、これを知った橋本欣五郎から「なんという事をいう奴だ、この大馬鹿野郎が」と罵倒されても一言も返せず赤面を覆った。木戸幸一は、児玉源太郎の娘ツルを妻とし、多くの子孫に囲まれ1977年まで長寿を保った。

桂太郎の父桂與一右衛門は知行125石の馬廻役で長州藩の上士身分であった。母喜代子の兄中谷正亮は藩校明倫館きっての秀才といわれ、吉田松陰の親友で松下村塾の後援者であり、木戸孝允とも親交があった。桂太郎は好色で、しばしば新聞ダネにもなった。最初と2番目の妻は離婚、3番目と4番目の妻はそれぞれ一男一女をもうけたが病没、5番目の可那子(井上馨の養女)が二男一女を産んだ。日露戦争勝利で公爵に栄達した桂太郎は方々で浮名を流し、日比谷焼打事件の折には愛人お鯉の妾宅に怒れる民衆が押しかける騒ぎとなった。

児玉家は徳山藩士(長州藩の支藩)で家禄100石の中級クラスの家柄であった。児玉家は毛利家中の名門で、毛利元就に近侍した児玉就忠およびその弟で毛利水軍を率いた児玉就方が有名である。児玉就忠の孫娘は毛利輝元の側室となり初代長州藩主の毛利秀就と初代徳山藩主の毛利就隆を産んでいる。さて、児玉源太郎は嫡子だが幼少期に父の児玉半九郎が死に、家督を継いだ姉婿の児玉次郎彦が「俗論党」に殺害され一時家名断絶・家禄没収の憂き目をみたが、高杉晋作の政権奪回で家名再興を赦され16歳で戊辰戦争に従軍、不平士族反乱で戦功を重ね陸軍長州閥のホープとなった。児玉源太郎は子福者で七男五女があったとされる。児玉源太郎子爵が急死し伯爵に昇叙された嫡子の児玉秀雄は、東大法学部を出て大蔵官僚となり朝鮮総督府で活躍、貴族院議員に転じ岡田啓介内閣の拓務大臣・林銑十郎内閣の逓信大臣・米内光政内閣の内務大臣・小磯國昭内閣の国務大臣を歴任し終戦を迎えた。児玉秀雄の妻は陸軍長州閥で児玉源太郎と同年生れの寺内正毅の娘で、無嗣のため娘婿の児玉忠康に家督を継がせている。児玉源太郎の三男児玉友雄は陸軍中将、四男の児玉常雄は陸軍大佐(妻は木戸孝允の甥木戸孝正の娘)となり、七男の児玉九一は内務官僚へ進み厚生次官まで務め、末子のツルは侯爵木戸幸一(木戸孝正の子)に嫁いだ。『太陽にほえろ!』の映画監督児玉進は、児玉源太郎の曾孫にあたる。