11 takasugi

たかすぎ しんさく

高杉 晋作

1839年~1867年

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吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄

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Kakei

高杉氏は、備後高杉村を所領した土豪で、毛利元就に仕えた武田小四郎春時が高杉姓を名乗り、関が原合戦後の減転封で毛利輝元に従い萩へ移住して譜代の大組士となった。家禄200石は中級ランクだが、門閥世襲士族として藩政に参与する資格を有した。十代目の高杉小忠太は、、藩主の側近に仕え小納戸役・奥番頭役・直目付役などを歴任、謹厳保守的な性格で一人息子の晋作が吉田松陰に近づくのを嫌い晋作が没するまで暴挙を諌め続けた。晋作のほかに武・栄・光の三女を生した。高杉晋作は、脱藩事件や俗論党による粛清で落ち着く間が無く、高杉家は光に入婿した半七郎春祺が相続、晋作は晩年に長州藩から100石(少なすぎるが)を賜り谷潜蔵へ改名して別家を立てた。妻の雅が産んだ一人息子の東一が谷家を継ぎ後に高杉に復姓、谷姓は晋作の墓を守る下関郊外吉田の東行庵の歴代庵主へ受継がれた。高杉晋作が雅の目を盗み足繁く通った愛人うの(下関芸妓を身請け)は、高杉の死後剃髪して梅処尼と称し、下関郊外吉田の東行庵にこもり66歳で没するまで高杉の墓守りを続けた。3歳で父の晋作を喪った高杉東一は、雅と祖父母に養育され、明治に入って長州藩史編纂の任に召喚された祖父の小忠太に従い東京へ移住、明治政府は晋作の功により授爵を申出たが「親の七光りで頂くのなら欲しくない」と断り、外交官として活躍し『英和新国民辞書』を纂訳した。東一には、妻茂との間に二男二女があり、高杉家を継いだ長男の春太郎は陸軍主計少尉を経て第二次戦後は商社マンになった。