日本史年表へ戻る
軍部の暴走抑止に努める西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実・高橋是清・木戸幸一・一木喜徳郎ら天皇側近の重臣グループは「君側の奸」と敵視された。陸軍統制派と平沼騏一郎ら右翼は一木喜徳郎・美濃部達吉の「天皇機関説」を槍玉にあげ重臣の排撃を図り、真崎甚三郎・荒木貞夫ら陸軍皇道派は「国体明徴運動」を推進し「日本は万世一系の天皇が統治し給う神国である」という国家観を喧伝、マスコミも便乗したため全体主義・軍国主義が支配的となり言論封殺やテロを容認する空気が醸成された。国体問題が政局化するに至り統制派首領の永田鉄山などは慎重論へ転じたが、岡田啓介内閣の「国体明徴声明」で決着がついた。五・一五事件に怯えた西園寺公望・牧野伸顕は既に別荘に引籠り、一木喜徳郎は右翼の襲撃を受け隠退、過激派の敵意は猶も軍部に抵抗を続ける鈴木貫太郎や高橋是清へ向けられた。なお陸軍では、統制派に締出された皇統派の永田鉄山攻撃が加熱し相沢三郎中佐が永田斬殺事件を起した。皇統派は勢いを増し隊附青年将校グループによる二・二六事件が勃発、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、テロを恐れる重臣は完全に腰砕けとなり抑え役を放棄した。リーダーの西園寺公望は首相指名権を重臣会議に譲り隠退、後継者と頼む近衛文麿の内閣が日独伊三国同盟を締結した直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。東京裁判で終身禁固に処された右翼の平沼騏一郎は巣鴨拘置所で重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。終戦まで内大臣に留まった木戸幸一(木戸孝允の継孫)は主戦派の東條英機を首相指名する愚を犯したが、二・二六事件で一命を取り留めた海軍人の岡田啓介・鈴木貫太郎は重臣会議に加わった米内光政と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣で昭和天皇の「聖断」を引出し第二次大戦の幕引き役を果した。