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林銑十郎は、永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系陸軍幕僚に担がれ陸相・首相に上り詰めた。加賀藩出身の林銑十郎は陸士・陸大と進むも長州閥が牛耳る陸軍で傍流を歩んだ。が、長州閥打倒で結束した「一夕会」の少壮幕僚は担ぐべき上官を求め、上原勇作の佐賀閥に連なる真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎の三将官に白羽の矢を立てた。ここから林銑十郎の出世が始まり真崎甚三郎の推薦で陸軍大学校長に栄進、近衛師団長を経て朝鮮軍司令官となった。関東軍の石原莞爾らが柳条湖事件を起すと、朝鮮軍司令官の林銑十郎は神田正種参謀の進言に従い軍令を無視して派兵を断行、若槻禮次郞内閣の事後承諾を得て満州事変成功の立役者となった。「越境将軍」林銑十郎は「陸軍三長官」の教育総監へ栄転し、病気降板の荒木貞夫に代わり陸相に就任した。中国先攻を説く永田鉄山(統制派)と対ソ開戦を譲らない小畑敏四郎(皇道派)が対立し一夕会が分裂を起すと、陸相の林銑十郎は皇統派の真崎甚三郎と袂を別ち地方に飛ばされていた永田を陸軍省枢要の軍務局長に登用した。なお、「皇道派」は荒木貞夫・真崎甚三郎の両大将を担ぎ国家改造を期す急進改革派で、北一輝ら右翼の影響を受け武装クーデターも辞さない青年将校グループも巻込んだ。皇統派に対し下級将校の跳梁を認めない永田鉄山と腹心の東條英機・武藤章・田中新一らは「統制派」と称され、エリート幕僚が陸軍中央を掌握し全陸軍の威力をもって軍事政権樹立を図ろうとした。林銑十郎陸相を担ぎ人事権を握った永田鉄山は小畑敏四郎はじめ皇道派・対ソ開戦派を一掃し統制派が陸軍省・参謀本部・教育総監府を掌握、陸軍中央は永田の「中国一撃論」「国家総動員」で一枚岩となった。巻返しを図る皇統派は永田鉄山を斬殺し(相沢事件)二・二六事件に関与したが昭和天皇の逆鱗に触れ自滅、両派に属さず二・二六事件を断固処断した石原莞爾が陸軍の主導権を握り「猫にも虎にもなる(自由に操れる)」林銑十郎を首相に擁立した。カイゼル髭を靡かせ「祭政一致」を掲げた林銑十郎首相だが、「食い逃げ解散」失敗で陸軍にも見放され「何もせんじゅうろう内閣」は僅か4ヶ月で退陣した。