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「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」の発明で「紡績財閥」の事業基盤は磐石となり、開発者の豊田喜一郎は欧米に乗込み本家本元の英国プラット社への売込に成功した。しかし世界恐慌は生産力過剰の繊維産業を直撃し、プラット社さえ苦境に喘ぎ企業城下町オールダムに失業者が溢れる凋落ぶり、愕然とした豊田喜一郎は事業転換を決意し帰国後直ちに有望とみた自動車産業への参入に着手した。当時小型車の需要は急増中で製造拠点の名古屋地域は「中京デトロイト計画」を打上げ、豊田佐吉を追出した三井物産の「豊田式織機」も名乗りを上げていた。豊田佐吉が急逝し豊田紡織社長の豊田利三郎らは自動車参入に猛反対したが、1933年最有力の鮎川義介が日産自動車を設立しダットサン製造を開始するに及び、豊田喜一郎は妹の愛子(利三郎の妻)と従弟の豊田英二の支持で反対を押切り「豊田自動織機製作所」内に自動車製作部門を創設した。高度な自動車エンジンの開発は困難を極めたが、豊田喜一郎は大番頭の西川秋次や豊田英二の応援で開発資金を捻出し、「A1型乗用車」「G1型トラック」の試作成功で日産自動車と共に自動車製造事業法の許可を獲得、1937年「トヨタ自動車工業」を設立し量産に乗出した。軍用トラックの増産要請を受けた豊田喜一郎は挙母(→豊田市)に巨大工場を開設し、豊田製鋼(愛知製鋼)・豊田工機・東海飛行機(アイシン精機)・トヨタ車体工業(トヨタ車体)・日本電装(デンソー)など部品製造子会社を継足して業容を拡大、死に体の豊田紡織を吸収合併し第二次大戦の輸出封鎖で壊滅した紡績関連事業を自動車事業に組入れた。第二次大戦後、豊田産業(豊田通商)が持株会社と見做され財閥解体の対象にされたが、分社化戦略が幸いし実害を蒙らなかった。が、物資不足とドッジ・ライン恐慌でトヨタ自動車工業は経営危機に陥り大規模労働争議も発生、銀行団の協調融資で倒産を免れたが豊田喜一郎は引責辞任に追込まれた。直後に朝鮮戦争が起りトラック特需でV字回復を遂げたが、豊田喜一郎は社長復帰を目前に57歳で急逝、3年後にトヨタはクラウンで大衆車に参入し高度経済成長の波に乗った。