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ロンドン海軍軍縮条約や第一次上海事変の不拡大に不満を抱く三上卓中尉・古賀清志中尉ら海軍青年将校の一団が、天皇をミスリードする「君側の奸を排除する」として武装蜂起し犬養毅首相を殺害した(五・一五事件)。新聞記者あがりの犬養毅は政界に転じても毒舌の皮肉屋で鳴らし、大の負けず嫌いだった。三上卓らが首相官邸に来襲すると犬養毅は「早くお逃げください」と促す村田警備官を制し「きみらは何者だ?」と応酬、落着いた態度で「待て、話せばわかる。撃つのはいつでも撃てる。話をしてからにしろ。靴くらい、ぬいだらどうだ」と諭すも三上は「問答無用!」と叫んで銃弾を浴びせ逃走、犬養はタバコに火をつけ「いまの若いものたちを、もう一度呼んでこい。わしがよく話してやる」と話した。頭部に命中した2発の銃弾は急所を外れていたが、銃傷を軽く看た医師団のミスもあり数時間後に犬養毅は死亡した。軍部が「君側の奸」と憎む西園寺公望元老・牧野伸顕内大臣・鈴木貫太郎侍従長も狙われたが難を逃れた。現役の軍人が首相を殺すという大犯罪であったが、海軍内部では艦隊派(軍拡派)の東郷平八郎元帥・加藤寛治大将を筆頭に同情論が支配的で、国民からも助命嘆願運動が起り、首謀者の三上卓と古賀清志が禁固15年・実行犯2人が無期懲役と禁固13年に処されたものの残りは全部無罪という到底考えられない判決が下され、受刑者も6年後の特赦で放免となった。三上卓は、血盟団事件を起すも特赦放免の井上日召・菱沼五郎・四元義隆ら血盟団残党に合流し「ひもろぎ塾」を結成、右翼シンパの近衛文麿はテロ犯をまとめて内閣顧問に招聘する。五・一五事件後、テロに怯える西園寺公望と牧野伸顕は東京を離れたが、鈴木貫太郎は暴挙を容認した軍部を決然と非難し、高橋是清蔵相も財政の観点から軍事費抑制の主張を曲げなかった。政権争いに終始し機能不全に陥った政党政治は五・一五事件で命脈を絶たれ、続く斎藤実内閣(海軍)から第二次大戦終結まで「挙国一致内閣」が続くこととなった。五・一五事件の容認に味をしめた軍部や右翼は怖いもの知らずとなり、逆に政治家はテロに屈して抵抗を放棄、暴力が支配する恐怖時代への幕開けとなった。