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満州事変を成功させた関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らは、満州から欧米列強の関心を逸らすべく各国の租界が集中する上海で武力衝突事件を発生させた(第一次上海事変)。上海日本公使館付き陸軍武官の田中隆吉中佐が現地で謀略工作を担当、田中は石原莞爾から約2万円の工作費を受取り、「東洋のマタ・ハリ」といわれた愛人の川島芳子などを使い「反日分子」に偽装させた不逞中国人に上海市街を托鉢中の日本人僧侶一行5人を襲撃させ、うち2人が死亡する事件を引起した。上海駐在の日本軍は満州に続けとばかりに国民政府の十九路軍に迫り、両軍が発砲して大規模武力衝突に発展した。陸軍中央は犬養毅内閣を強迫して白川義則司令官の二個師団・約3万人の日本軍を上海に送込み、瞬く間に十九路軍を撃退した。「華北分離」を期す武藤章・東條英機ら統制派幕僚は蒋介石の拠る南京まで攻込むべしと主張したが、昭和天皇から不拡大の厳命を受けた白川義則司令官は決然と停戦命令を下し上海事変を終息させた。なお曲者の田中隆吉は、終戦後の東京裁判に際し虚実取り混ぜた陸軍の非道をGHQに暴露し「陸軍の裏切り者」と憎まれ、「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と憤激した武藤章は現実に無念の極刑へ追込まれた。さて、米英の干渉で上海事変の停戦講和がまとまり、吉日(昭和天皇誕生日・天長節)を選んで上海北部の公園で調印式が執り行われたが、祝宴の最中、朝鮮人尹奉吉が手榴弾を投込むテロを起し、白川義則司令官ほか1名が死亡、重光葵公使は右脚を失い、野村吉三郎中将(ハル・ノートで有名)・植田謙吉中将・村井倉松総領事らが重傷を負う大惨事となった(上海天長節爆弾事件)。白川義則も重光葵も国際協調派の要人であり、伊藤博文暗殺と同様に反日原理主義者のテロが逆効果を招く皮肉が繰返された。なお韓国併合後、日本による朝鮮国家建設と民生向上に伴い反日運動は終息、金九ら少数の反日原理主義者は上海に逃避するも相変わらず内ゲバに明け暮れ、後に韓国初代大統領となる李承晩は政争に敗れ欧米へ逃避中だった。