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皇族軍人の伏見宮博恭王は、1932年から1941年、即ち満州事変から対米開戦直前までの日本の運命を決した重要期に、10年の長きに渡って軍令部総長として海軍に君臨したキーパーソンである。1930年にロンドン海軍軍縮条約批准を巡る統帥権干犯問題が起ると、海軍では、反米英・親独で大艦巨砲主義に基づく軍拡を主張する艦隊派と、米英との軍事衝突回避を最優先する条約派が鋭く対立した。加藤寛治・末次信正・岡敬純・石川信吾・大角岑生・南雲忠一らが連なり優勢な艦隊派に対して、米内光政・山本五十六・井上成美の条約派トリオは奮闘したが、東郷平八郎・伏見宮博恭王の両大御所を担いで海軍中央から条約派を締出した艦隊派が勝利を収めた。艦隊派は、伏見宮博恭王が君臨する軍令部の権限強化に努めつつ、海軍軍縮条約廃棄、日独伊三国同盟締結、仏印進駐と続く強硬政策を牽引し、石油禁輸で日米対立が決定的となると、海軍の出師準備発令を引き出し、海軍国防政策委員会に権限を集中して戦争準備を進め、対米開戦を規定路線化させた。伏見宮博恭王は対米開戦直前に軍令部総長を辞職したが、終戦まで元帥として影響力を保持し、海軍の人事や戦術に干渉を続けた。