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満州問題武力解決を強行する陸軍の謀略を知った昭和天皇と元老西園寺公望は南次郎陸相を呼びつけ停止を厳命、腰砕けとなった南は金谷範三参謀総長に相談のうえ止め役として建川美次作戦部長を満州へ派遣した。これを知った関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは決行か中止かで大いに迷ったが、三谷清憲兵分隊長・今田新太郎駐在分隊長ら若手の強硬派に押され遂に実行を決意した。奉天に到着した建川美次を料亭菊文に招いて酒豪の板垣征四郎らが酔潰している間に、今田新太郎ら実行部隊は奉天郊外の柳条湖付近で鉄道を爆破した(柳条湖事件)。満鉄の鉄道爆破は、関東軍条例第三条に基づく合法的軍事出動の理由を得るためであった。菊文を飛出した板垣征四郎は張学良軍の先制攻撃と断じて奉天守備隊長らに奉天城・北大営の攻撃を命令、旅順の関東軍司令部では石原莞爾が本庄繁司令官を説伏せ関東軍を奉天へ進発させた。奉天作戦に続くハルビン侵攻を期す石原莞爾は、張学良軍が奉天周辺だけで2万・満州全土で25万もいるのに対し関東軍は1万余という戦力不足を補うため、朝鮮駐留軍の越境増援を画策し朝鮮軍作戦参謀の神田正種の内諾を得ていた。が、奉天で待っていたのは金谷参謀総長からの不拡大方針決定を伝える電報であり、本庄繁司令官は翻意して即時停戦を命じ「ハルビン侵攻などもってのほか」とした。が、諦めない石原莞爾らは「ハルビンが駄目なら吉林省」と侵攻作戦を書き直し本庄司令官に談判した。「沢庵石」の異名をとる本庄繁は撥ね付けたが板垣征四郎の強談判に屈し、石原莞爾参謀は戦線を満州全域へ拡大、林銑十郎司令官の独断で朝鮮駐留軍も越境来援し日本軍は瞬く間に張学良軍を掃討し満州全域を制圧した(満州事変)。このとき本庄繁が頑として拒否を貫いていれば、張作霖爆殺事件と同様に満州事変は忽ち沈静化し石原莞爾・一夕会の大陸浸出の野望も挫折した可能性が高い。