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ゴム底の「アサヒ地下足袋」「アサヒ靴」で急成長を遂げた「日本足袋」だが、ゴムの仕入れが生産に追いつかなくなり、石橋正二郎はゴム製造に乗出した。その過程で「将来は国産自動車が沢山作られて、500万台でも1000万台でも走る時代が来る・・・将来のゴム工業として大きく伸びるのは、なんといっても自動車タイヤだから、これを国産化したい」との着想を得た石橋正二郎は、自動車タイヤ事業への進出を決断した。膨大な資金を要する事業に兄の石橋徳次郎ら経営陣は尻込みしたが、石橋正二郎はゴム研究の先駆者で九州帝大教授の君島武男から「研究費に100万や200万円は捨てる考えがあるのなら、私もお手伝いをいたしましょう」と協力を取付け、福岡の先輩で三井財閥総帥の團琢磨からも賛同を得た。この縁で石橋正二郎は長男石橋幹一郎の妻に團琢磨の孫娘朗子を迎えている。1929年石橋正二郎は日本足袋にタイヤ部を設置し高価な米国製タイヤ製造機械を取寄せ試作を開始、翌年には国産自動車用タイヤ第1号の製造に成功し1931年石橋徳次郎との共同出資で「ブリッヂストンタイヤ株式会社」(石橋=ストーン・ブリッジの逆さ読み)を設立し社長に就任した。当初は不良品返品の山を築いたが、翌年には商工省優良国産品に認定されフォード・GMの製品試験合格で世界基準を獲得、輸入品の半額以下のブリッヂストンタイヤは軌道に乗り、石橋正二郎はゴルフボールへも手を広げた。満州事変後の軍用トラックの需要急増を受け、自動車の国産化を期す石原莞爾ら陸軍中枢は1936年自動車製造事業法を制定、助成対象となった日産自動車・豊田自動車工業・いすゞ自動車は急成長を遂げたが、石橋正二郎のブリッヂストンタイヤも軍需を掴んで躍進し事業基盤を構築、地方企業から脱却し海外進出の足場を築くため本社を久留米市から東京麻布へ移転し、1942年日本軍が接収した米国グッドイヤー社インドネシア工場の経営を託され海外生産も開始した。