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張作霖爆殺事件後、日本が実効支配する満州では排日・侮日運動が高まり開拓団ら居留民の安全が脅かされる状況が続いていた。満州・華北視察で憂慮を深めた「一夕会」の永田鉄山軍事課長は陸軍中央に「五課長会」を設置し(委員長は参謀本部第二部長の建川美次で永田盟友の岡村寧次も参加、翌年永田側近の東條英機・今村均らが加わり「七課長会議」へ発展)「武力による満州問題解決を辞さないが、1年間は隠忍自重」とする「満蒙問題解決方策の大綱」を定め関係省庁の承認を得て正式に関東軍へ通達した。「無主の地」とはいえいきなり植民地にすると各国の干渉を招くため、先ずは満州皇帝を擁立して親日政権を樹立し独立国の体裁を整えることとされたが、早急な「満蒙領有」を企図する関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは傀儡政権樹立には否定的であった。また一夕会も一枚岩ではなく、遵法精神が篤く陸軍の統制を重視する永田鉄山は(後に「統制派」の由来となる)関東軍の独断専行も辞さないとする石原莞爾らの暴走抑止に努めた。そうしたなか中村震太郎大尉殺害事件および万宝山事件が発生、陸軍省・参謀本部・関東軍の主要実務ポストを握る一夕会系幕僚は南次郎陸相・金谷範三参謀総長・武藤信義教育総監以下の陸軍首脳から満州問題武力解決の内諾をとり、焦点の関東軍司令官には剛毅で鳴らす本庄繁大将が任命された。強引にお墨付を得た関東軍の石原莞爾・板垣征四郎らは直ちに武力解決の謀略に着手、陸軍中央が制止に動くと計画前倒しで柳条湖事件を決行し思惑通り満蒙の武力制圧を成功させた(満州事変)。