日本史年表へ戻る
ロンドン海軍軍縮会議から帰国した山本五十六は、末次信正軍令部次長に対し「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである。」と進言して航空兵力の重要性を説き、自ら海軍航空本部技術部長に就任、以後一貫して海軍における空軍力拡充を主導し、5年後には海軍航空本部長に昇った。山本五十六は、このときから10年前の海軍大学校教官在任中、教頭の職にあった山本英輔の影響で航空主兵論に目覚め、長期のアメリカ滞在を通じてその確信を深めていた。当時の海軍はパナマ運河開通を受けて石川信吾らが主導した大鑑巨砲主義に偏り、傍流の航空本部は巨大戦艦製造の予算を奪う形で苦労しながら航空母艦と航空機の整備を進めた。航空本部では、大西瀧治郎・源田実ら幕僚が山本五十六をよくサポートした。果して太平洋戦争が勃発し、連合艦隊司令長官に就いた山本五十六は、手塩に掛けた航空兵力と画期的な航空機爆撃によって真珠湾攻撃で快勝を収め航空主兵論の正しさを実証した。一方、大鑑巨砲主義の象徴である戦艦大和は、大戦直前に就役したものの使い道が無く、「大和ホテル」と嘲笑された挙句、大戦末期にようやく沖縄戦の特攻作戦に投入されたが、移動中に敵爆撃機の的にされあえなく撃沈した。真珠湾攻撃やシンガポール攻略戦で日本軍の航空兵力の威力を目の当たりにしたアメリカ軍は、すぐさま航空機と航空母艦の大増産に乗出して続々と戦線に投入した。アメリカの物量作戦により瞬く間に彼我の航空兵力は逆転し、太平洋戦争の勝敗を分ける決め手となった。