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石原莞爾は、陸士(21期)・陸大で奇才を現し「陸軍随一の天才」と称されたが、平然と教官を侮辱する異端児で哲学・宗教に傾倒し、写生の授業で己の男根を模写し退学になりかけたこともあった。田中智学の「国柱会」(日蓮宗)に帰依する石原莞爾は宗教的カリスマを帯び、服部卓四郎・辻政信・花谷正ら後輩の崇敬対象だった(なお国柱会には近衛文麿の父篤麿や宮沢賢治も加盟)。鈴木貞一(22期)らと「木曜会」を興した石原莞爾は永田鉄山(16期)の「一夕会」に合流し「満蒙領有方針」を牽引、関東軍参謀に就くと永田の制止を振切り板垣征四郎(16期)と共に満州事変を決行した。南二郎のアジア主義に薫陶された石原莞爾は中国独立運動のシンパで、日満蒙の平和的連携による資源と市場の獲得を追求(王道楽土)、「第一次世界大戦後に世界平和は回復されたが、列強はいずれまた世界戦争を始める。いろんな組合せで戦っていくうちに、最後にはアメリカ、ソ連、日本が残る。日本は戦いを避けて国力と戦力を整えつつ待ちの姿勢を貫くことが肝心で、そうすればいずれアメリカがソ連を破り、最終戦争で世界の覇権を賭けてアメリカと対決することとなろう」という「世界最終戦争論」を唱え、日本は「無主の地」満州を領有して国力不足を補い日中鮮満蒙の「五族協和」で総力戦に備えるべしとした。統制派・皇道派に属さず「満州派」を自称する石原莞爾は永田鉄山斬殺事件に伴い陸軍中央の指導的地位に就任、二・二六事件が起ると戒厳司令部参謀に就き皇道派を断罪し壊滅させた。反乱将校を扇動した荒木貞夫(陸士9期)に対し石原莞爾は「バカ!おまえみたいなバカな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけ、軍規違反と怒る荒木に「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ?」と言返したという。盧溝橋事件が起ると、日中戦争泥沼化を予期する石原莞爾は停戦講和に奔走したが、武藤章・田中新一(25期)・東條英機(16期)ら統制派の「中国一激論」「華北分離工作」が優勢で近衛文麿内閣の和解拒否により不拡大派は失脚、関東軍参謀副長へ左遷された石原は参謀長の東條英機と衝突し、東條が陸相に就くと完全に政治生命を絶たれた。