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1921年、陸軍士官学校16期のエリート永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次がドイツ南部の保養地バーデン・バーデンで落合い陸軍長州閥の打倒および「国家総動員体制」の確立へ向け会盟、ここに陸軍の下克上が始まった(バーデン・バーデン密約)。ドイツ駐在の東條英機(17期)も駆付け永田鉄山の腹心となった。盟主の永田鉄山は信州上諏訪出身、陸軍幼年学校から陸軍大学までほぼ主席で通し人心掌握も上手く「陸軍の至宝」と賞された逸材で、第一次大戦視察のためドイツ周辺諸国に6年間滞在し「総力戦時代の到来」に危機感を抱き国家総動員体制を提唱した。対する陸軍長州閥は、創始者の山縣有朋を1922年に喪うも田中義一(長州)・白川義則(愛媛)・宇垣一成(岡山)が系譜を継ぎ勢力を保っていた。大正デモクラシー=軍人蔑視、山梨・宇垣軍縮への不満渦巻く陸軍各所で中堅将校の「勉強会」が萌芽するなか、永田鉄山らは河本大作(15期)・板垣征四郎・土肥原賢二(16期)・山下奉文(18期)ら同志20人と渋谷「二葉亭」で会合を重ね(二葉会)、石原莞爾(21期)・鈴木貞一(22期)ら年少組の「木曜会」と合体し「一夕会」を結成、武藤章・田中新一(25期)・牟田口廉也(29期)らも加わった。僅か40人ほどの一夕会だが、このあと陸軍を動かす面々が悉く名を連ね、第一回会合では陸軍人事の刷新、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州閥三将官の擁立、満州問題の武力解決、国家総動員体制の確立の大方針を決め、陸軍中央の重要ポスト掌握に向け策動を開始した。河本大作の「張作霖爆殺事件」は不拡大に終わったが、板垣征四郎・石原莞爾の「満州事変」は若槻禮次郞内閣の追認で拡大し満州国建国に結実、一夕会は「ソ連に勝つには今しかない」と説く小畑敏四郎ら皇道派(荒木貞夫の「皇軍」発言に因む)と総動員体制確立・中国問題解決を優先する永田鉄山ら統制派に分裂し、統制派が陸軍中央を制すと「永田鉄山斬殺事件」が起るが、皇道派は二・二六事件で自滅し、不拡大派の石原莞爾を退けた武藤章・田中新一・東條英機ら統制派が対外硬派の近衛文麿内閣を動かし中国侵攻(日中戦争)・国家総動員法を成就させた。