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東大工学部機械工学科を卒業した豊田喜一郎はエンジニアを志したが、発明の難しさを知悉する父の豊田佐吉は経営に専念するよう指示した。が、翌1921年「豊田紡織」に入社した豊田喜一郎は自ら工場現場へ出て技術習得に努め、豊田利三郎・愛子の妹夫婦に従い欧米視察へ出ると最先端の機械繊維メーカー英国プラット・ブラザーズ社で工場実習に励み、帰国後は豊田佐吉の指示どおり紡績事業経営に注力しつつも、父と異なる方式で自動織機の開発に没頭した。「発明王」豊田佐吉の当時の課題は自動杼換装置の量産化で11年前の「豊田式織機」追放の原因でもあったが、豊田喜一郎は独自のアイデアで難題を克服し1925年「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」の完成に漕ぎ着けた。豊田佐吉は翌年「豊田自動織機製作所」を設立し動力織機事業を再開、常務取締役・開発責任者に補された豊田喜一郎は「織機でならまず右に出る者がいない」と自認するほど日本屈指の織機技術者となっていた。