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格安均一価格と斬新な広告宣伝で急成長を遂げた石橋正二郎の「日本足袋」であったが、第一次大戦後の反動不況で売上は伸悩んだ。有望な新製品を模索する石橋正二郎は、高価な割に耐久性が低くあまり売れていなかったゴム底足袋に着目し、自ら技術改良に取組んで実用性の高い製品の開発に成功、1923年「アサヒ地下足袋」と名付けて売出した。九州の炭鉱夫から火がついて評判は口コミで全国へ広がり、農作業や土木作業に大変便利なゴム底のアサヒ地下足袋は瞬く間に市場を席巻、さらに関東大震災に伴う首都圏の土木建築ラッシュが強力な追風となり、今日へ至る定番品の地位を確立した。石橋正二郎は好機を逃さず、ベルトコンベアシステムを導入した最新設備の大工場を建設しゴム底足袋の量産体制を構築、あわせて日本足袋の製品のみを取扱う専売店網を全国へ広げ強力な販売体制を敷いた。さらに商品多様化を図る石橋正二郎は1928年ゴム靴専門工場を開設し、安くて丈夫なゴム底の「アサヒ靴」を売出すと全国学童の通学・体育用の定番品となり手堅い市場を獲得、勢いのまま長靴・ゴム靴へと手を広げた。日本足袋の専売店は日本全国に6万店を数え中国・満州へも進出、年産6~7千万足を誇る日本有数の消費財メーカーへ発展を遂げた。生活必需の消耗品を扱う石橋正二郎の日本足袋は1927年の金融恐慌でも好調な業績を維持、時の濱口雄幸内閣の井上準之助蔵相は「かかる不況の中にも、なお繁盛しているものがある。東のマツダランプ、西の日本足袋である」と賞賛した。なおマツダランプは東京電気がライセンスを取得し日本で販売したアメリカの電球ブランドで、松田重次郎のマツダ自動車とは無関係である。