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大磯の別荘「寿楽庵」に滞在中の安田善次郎は、押掛けて来た右翼青年との面会に応じたが、突然刃渡り8寸ほどの短刀で斬付けられた。82歳ながら健康体の安田善次郎は逃走するも追いつかれ背後から咽喉部に止めの一撃を受け絶命、犯人の朝日平吾は現場を離れた直後に西洋カミソリで喉を掻切り壮絶死を遂げた。朝日平吾は、安田善次郎がで巨利を博した「相場操縦」に巻込まれ株式相場で大損を出し投身自殺騒ぎを起していた。佐賀県出身の朝日平吾は旧制福岡中学から日本大学へ進むも満州に渡るなど無頼生活を送り、当時死病といわれた結核に侵されたことで極端な厭世家となり、「神州義団」を名乗るエセ右翼に落ちぶれ富豪の邸宅に押掛けては金銭をせびる行動を繰返し、安田善次郎の前には渋沢栄一を訪ねたが100円の小遣いで追払われていた。「金の亡者」と嫌われた安田善次郎の死に世間はほとんど同情を寄せず、逆に殺人犯は英雄視され、この2ヵ月後に起る原敬首相刺殺事件の呼水になったともいわれる。不慮の死を遂げた「銀行王」安田善次郎だが、今日に繋がる安田財閥と膨大な遺産を残した。死亡時の安田善次郎の個人資産は2億円超といわれ、その年の年間国家予算1,591百万円の8分の1に相当する巨万の富を一代で築いたことになる。が、安田善次郎はケチといわれつつ生涯質素倹約に徹し、芸者遊びを嫌い、1872年1月1日から1921年の死の前日まで49年間、毎日几帳面に日記を書き続けた自律の人でもあった。現在も安田家に飾られているという安田善次郎自筆の俳画には、みみずくの絵の横に「小鳥ども 笑わば笑え われはまた 世の憂きことは 聞かぬみみずく」の句が添えられている。