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大叔父井上馨の支援のもと戸畑鋳物で成功を収めた鮎川義介は、田中義一ら陸軍長州閥の要請に応じ、1920年破綻に瀕した久原財閥の経営再建を引受けた。長州人政商の久原房之助は、鮎川義介の妹婿で、叔父藤田伝三郎の藤田財閥から独立して日立銅山や日立製作所を興し「久原財閥」と称されたが、「大風呂敷」な放漫経営で破綻に瀕し自力再建不能に陥った。この後政界へ転じた久原房之助は田中義一内閣に逓信相で入閣し、大政翼賛会支持で近衛文麿首相の取巻きとなった。さて鮎川義介は、久原鉱業(のち日本産業)を持株会社へ改組し傘下に日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の系列企業を連ね「日産コンツェルン」を形成した。鮎川義介が興した企業群も整理統合され、持株会社共立企業は日本産業に、戸畑鋳物は日立製作所に吸収された。短期間で久原系企業の再建を果した鮎川義介は、持株会社の日本産業(日産)を証券取引所に上場させ、当時斬新な「公衆持株」の発想で広く大衆から出資を募った。公衆持株は銀行融資が得られない状況で生れた苦肉の策であったが、1931年の金価格高騰で日本鉱業が花形株となり膨大な資金を獲得、積極投資と事業拡大が株価を押上げ更に資金を呼込む好循環が出来上り、日産は業績不振企業の買収と再建を繰返す「企業再生ファンド」と化した。軍拡に乗り重化学工業主導で膨張を続ける日産コンツェルンは三井・三菱に迫る勢いを示し、鮎川義介は日窒コンツェルンの野口遵・森コンツェルンの森矗昶と共に「財界新人三羽烏」と持て囃された。