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日露戦争後の反動不況で三井物産が牛耳る「豊田式織機」から締出された豊田佐吉は、初代大番頭の西川秋次を伴い新天地を求め渡米したが、紡績業視察で自分の技術が上と確信し日本での再起を決意、ついでにヨーロッパを巡って帰国し1912年名古屋市に「豊田自働織布工場」を開設した。豊田佐吉の異能を知る三井物産の藤野亀之助大阪支店長と児玉一造名古屋支店長(後の東洋綿花初代社長で豊田利三郎の実兄)が開業資金集めに協力した。今度の経済環境は豊田佐吉に幸いし、第一次大戦に伴う物資不足で世界各国から綿布注文が殺到、業容拡大により「豊田紡織株式会社」へ改組し、最大輸出先の中国が関税を引上げると(大英帝国の特恵関税・保護貿易化)三井物産の支援を得て上海に輸出代替工場を開設した(豊田紡織廠)。豊田紡織廠へはNo2の西川秋次が乗込み「在華紡」の一角へ成長させた。念願の海外進出を果した豊田佐吉は、経営が安定した本丸の豊田紡織を娘婿の豊田利三郎に任せ、自身は愛知県刈谷町に「豊田自動織機試験工場」を開き長男の豊田喜一郎と共に再び織機開発に没入、1925年動力織機の完全版「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」を完成させ、「株式会社豊田自動織機製作所」を設立し織機事業への再進出を果した。初代社長は家長の豊田利三郎が兼任したが経営の実質は常務の豊田喜一郎が担った。「発明王」豊田佐吉は愛知県随一の企業家へ躍進し「紡績財閥」「豊田財閥」「地方財閥」などと称されるも死の前年に世界恐慌が始まり繊維不況が襲来、第二次大戦勃発で輸出が断絶し紡績事業は壊滅したが、代わりに長男の豊田喜一郎が興した「トヨタ自動車工業」が軍需を掴んで急成長を遂げ、佐吉の紡績事業は喜一郎の自動車事業へ吸収再編された。1943年トヨタ自動車工業に吸収された豊田紡織は大戦後に分離独立し「トヨタ紡織」となった。トヨタ車の組立とフォークリフト・コンプレッサー製造を担うトヨタ紡織、自動車内装品・フィルター製造を担う豊田自動織機、豊田佐吉の創業事業はトヨタ自動車の一翼を担う有力企業として繁栄を続けている。