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アメリカでの技術修行から帰国した鮎川義介は、井上馨の援助を受けて、北九州市に戸畑鋳物株式会社を設立、自ら主任技術者となって可鍛鋳鉄工場を開業した。当初は製造・販売共に手探りで、海軍から受注した六インチ砲の砲弾を納品してみると全部不合格になるといったトラブルにも遭遇、鮎川は会社存続のために資金繰りに奔走しなければならなかったが、第一次世界大戦や関東大震災の特需を追い風に経営は軌道に乗った。出資者が金の融通を渋るなか、藤田小太郎(長州人で藤田財閥創業者の藤田伝三郎の甥)の未亡人文子が増資を快諾してくれ。これで窮地を脱した鮎川は藤田文子を井上馨と同様に生涯の恩人として敬った。軍需景気の波に乗って成長を続ける戸畑鋳物は、電気炉による可鍛鋳鉄製造、農業用・工業用・船舶用石油発動機製造、電線製造などに技術分野を広げつつ、帝国鋳物、木津川製作所、安来製鋼所、東京製作所、東亜電機などを傘下に収めて業容を拡大していった。1922年には、人材と資金の機動的な運用を図りグループ全体の経営効率を高めるため、持株会社・共立企業を設立して傘下企業群を再編、これが日産コンツェルンの雛形となった。鮎川が久原財閥を承継して日産コンツェルンを発足させた後、国産工業に改称した戸畑鋳物はグループ再編により日立製作所に吸収されたが、大戦後の1956年に再び分離独立して日立金属工業株式会社となった。