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中上川彦次郎と衝突し三井銀行大阪支店長を辞めた岩下清周は、関西財界に出資を募り北浜銀行を創設、証券会社の設立も企図し支配人に部下の小林一三をスカウトした。折悪く日露戦争後の反動不況で株価が大暴落し証券会社の話は立消えとなり、勇んで三井銀行を辞めた小林一三は妻子を抱え失業する羽目となったが、岩下は小林を見捨てず、北浜銀行主導で箕面有馬電気軌道が発足すると実質トップの専務に招聘した。箕面有馬電気軌道は、鉄道国有法で国有化された阪鶴鉄道(JR福知山線)の補助線として箕面・宝塚・有馬方面への頻発運転を目的に設立されたが、株価暴落で出資募集が難航し北浜銀行が過半出資を引受けたお荷物案件だった。岩下清周から敗戦処理を託された小林一三だが、当時斬新なパンフレットで事業の将来性と「田園趣味に富める楽しき郊外生活」を謳い上げ、同郷の甲州財閥を歴訪し資金調達に成功、苦節3年で現在の宝塚本線・箕面線(梅田-宝塚間および石橋-箕面間)の開業に漕ぎ着けた。4年後に北浜銀行は倒産し岩下清周は逮捕されたが、小林一三は沿線土地を買収し宅地造成で荒稼ぎしつつ、終点ではレジャー施設(宝塚新温泉)と宝塚唱歌隊(宝塚歌劇団)で集客に努め、始点の梅田にはターミナルビルを建設して白木屋百貨店を招致し阪急食堂で当時珍しい洋食を提供、「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まるはず」との確信のもと巨費を投じて大規模増改築を行い直営の阪急梅田百貨店へ切替えた。「阪急沿線の分譲住宅に住み、買物は阪急梅田百貨店、レジャーも阪急宝塚で」・・・沿線住民の生活を丸抱えする「私鉄経営モデル」は阪急を大発展させ小林一三を「鉄道王」へ押上げたが、五島慶太の東急・堤康次郎の西武・根津嘉一郎の東武ら後進にそのまま踏襲され、鉄道事業・レジャー産業発展の原動力となった。