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1905年呉服店最大手の「越後屋」が「三越」(三井+越後屋)へ改称し主要新聞の広告で「デパートメントストア」を宣言、1914年には日本初エレベーター装備の地上5階地下1階建の三越日本橋本店が開業し、日本独自の百貨店業態の興隆が始まった。なお越後屋は、伊勢松坂出身の初代三井高利が「現金掛値無し」(定価販売)を掲げ1673年に創業した「三井財閥のルーツ」である。これ以前の小売店は特定品種を扱う専門店ばかりで、商品の店頭陳列も値付もせず客をみて値段を決める商慣行が横行していたが、デパートの登場で小売業界は一変、顧客は店頭に陳列された多種多様な商品を目で見て手に取り値札で比較購買できるようになった。三越が始めた百貨店業態は瞬く間に日本中へ広がり、1931年には人口10万人以上の30都市のうち24都市で営業面積500坪以上のデパートが営業するに至った。三越・松阪屋・白木屋・松屋・阪急などは斬新な呼物の開発に凌ぎを削り、定番のレストラン・屋上庭園に続き動物園やスポーツランドも登場、家族連れで終日楽しめる総合娯楽施設として日本独自の発展を遂げた。なかでも阪急百貨店を創始した小林一三は、呼物の枠を超え「宝塚歌劇団」「東宝映画」を一大事業へ発展させた。三越「少年音楽隊」の人気に着目した小林一三は1913年「宝塚新温泉」の室内プール「パラダイス」の閉鎖跡地にステージを設け「宝塚唱歌隊」の営業を開始、忽ち大人気を博した温泉座興は本格演劇「宝塚歌劇団」(←宝塚少女歌劇団)へ発展し、1918年帝国劇場公演で東京進出を果し機関誌『歌劇』も創刊した。芸術家肌の小林一三は趣味で始めた演芸に巨費を投入、芸人養成の宝塚音楽歌劇学校を創立し、宝塚大劇場・東京宝塚劇場を建設した。有楽座・日本劇場・帝国劇場も買収し日比谷一帯を傘下に収めた「東宝」は、浅草の松竹と東京興行界を二分する大勢力となり、大同を期す小林一三は松竹の社外取締役にも就いた。第二次大戦中に東京宝塚劇場と東宝映画が合併し「東宝株式会社」が発足、東宝は小林一三の次男松岡辰郎の子孫へ受継がれ今日も「阪急東宝グループ」の一翼を担う。