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愛知県湖西市の農業兼大工の家に生れた豊田佐吉は、大工仕事を手伝ううちに発明家を志すようになり、20歳前から度々出奔して東京など各地の工場を見学して回り、臥雲辰致の「臥雲式紡績機(ガラ紡)」を目当てに第3回内国興業博覧会へも赴いた。実地に見聞を広げた豊田佐吉は、変人扱いされながら納屋に篭って発明に没頭し「豊田式木製人力織機」を発明、さらに研究試作に打込み30歳前に国産初の動力織機「豊田式木鉄混製力織機」を完成させた。人力織機の10~20倍の生産性を誇りつつ品質均一化を実現した画期的製品であった。1897年豊田佐吉は愛知県知多郡の庄屋で綿織物商も手掛ける7代目石川藤八の資金援助を受け「乙川綿布合資会社」を設立、自作の動力織機を数十台設置し綿布製造に乗出すと、三井物産東京本社の検査係から品質の優秀さを認められ業務提携、三井物産は綿布より動力織機の販売に注力した。輸入品と比べ格安で品質も劣らない豊田式木鉄混製力織機は忽ち市場を席巻、家内制手工業が中心だった綿織物業では安価な動力織機の普及により大規模工場での大量生産が可能となり、綿織物が生糸・綿糸と並ぶ主要輸出産業へ発展する画期となった。なお、当時は既に高橋是清専売特許所長のもと特許法制が整備されており、特許法の恩恵を享受した豊田佐吉は私財を蓄えつつ更なる発明への意欲を高めた。1906年乙川綿布は三井物産の出資により「豊田式織機株式会社」へ拡大発展(現豊和工業)、豊田佐吉は常務取締役兼技師長に就任し自動杼換装置の発明で動力織機に進化を加えた。が、日本の製糸業輸出が世界一となった翌1910年、日露戦争後の反動不況で豊田式織機は業績不振に陥り、豊田佐吉は経営陣に責任を押付けられ辞任に追込まれた。