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伊藤博文政府は下関条約で獲得した台湾の植民地経営にあたり、軍隊を派遣して独立運動を制圧し台北に台湾総督府を設置した。台湾総督には樺山資紀(海軍大将)・桂太郎(陸軍中将)・乃木希典(陸軍中将)と軍人が相次いで就任し強硬な軍政が敷かれたが、ゲリラ的な抵抗運動は鎮まらず、日清戦争を上回る1万余の戦病死者を出し台湾統治は難航、特にマラリア感染による人的損耗が深刻で台湾人への権限委譲が急務となった。難局打開を図る日本政府は1896年台湾総督府条例で軍政から民政への方針転換を決定し、台湾総督府の開設業務を担当した児玉源太郎(陸軍中将)が自ら第4代総督に就任し内務省医系技官の後藤新平を民政局長に抜擢、民生向上と警察力強化のアメムチ政策を駆使し植民地経営を軌道に乗せることに成功した。ただ、1902年頃から都市部の抗日運動は沈静化したものの、山岳部を拠点とする高砂族は根強くゲリラ活動を続けた。後藤新平が政界へ転じ台湾を去った後も、児玉源太郎は死の直前まで8年以上も台湾総督を兼任し民政重視路線を承継し、土地調査事業による土地制度の近代化、電気・水道・交通インフラの整備、アヘンや樟脳の専売制実施、台湾銀行の設立、台湾製糖会社の設立、台北から高雄までの台湾縦貫鉄道の敷設などに膨大の資本を投入、清朝から「化外の民」と野蛮視された台湾は瞬く間に日本経済圏の一翼を担う近代国家へ大変貌を遂げた。なお、台湾統治の実績を買われた後藤新平は、日露戦争後に児玉源太郎・桂太郎の推挙で南満州鉄道会社(満鉄)の初代総裁に就任し、再び壮大な国家建設を推進し満州経営の礎を築いた。