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中国東北部を狙うロシアは、同盟国フランスおよびロシアの関心をアジアに向けさせたいドイツと結び、日本が下関条約で得た遼東半島を清に返還するよう強要した(三国干渉)。伊藤博文政府では列国会議で反論すべしとの案が優勢だったが、列強の更なる干渉を恐れる陸奥宗光外相の主張により受諾に決した。この間も陸奥宗光は、ロシアの南進政策を警戒し局外中立の立場をとる英米に働きかけ局面打開を狙ったが、イギリスが傍観で望みを絶たれ「要するに兵力の後援なき外交はいかなる正理に根拠するも、その終極に至りて失敗を免れない」と現実的妥協を受入れた。日本では、大隈重信の立憲改進党など「対外硬派」の扇動で反露世論が沸騰、「臥薪嘗胆」で軍備拡張に邁進した。日清戦争を主導した陸奥宗光の『蹇々録』は第一級史料だが、国民が勝利に酔うなか冷静に警鐘を鳴らしている。いわく「日本人は、かつて欧米人が過小評価したよりは、文明を採用する能力あることを示したが、はたして、今戦勝の結果、過大評価されているほど進歩できるのだろうか。これは将来の問題に属する。・・・日本人は戦勝に酔って、進め進めという以外、耳に入らない。妥当中庸の説を唱うる人は、卑怯未練といわれるので黙っているほかはない。愛国心は別に悪いものではないが、愛国心の使い方をよく考えないと、国家の大計と相反することもある。・・・今や、わが国は、列国からの尊敬の的となると共に、嫉妬の対象ともなった。わが国の名誉が高くなると同時に、わが国の責任は重くなった。この両者の間をとって、歩み寄りさせるのは容易ではない。なぜならば、当時、わが国民の情熱は、しばしばすべての主観的判断に出て、少しも客観的判断を容れず、ただ国内事情を主として、外部の情勢を考えず、進むことを知って、止まることを知らない状況だった。・・・政府は、国民の敵愾心の旺盛なのに乗じて、一日も早く、一歩も遠く、戦局を進行させて、少しでもよけいに国民の気持ちを満足させた上で、国際情勢を考えて、日本に危険が迫れば、外交の上で、進路を一転する策を講ずるほかはないと考えた」。伊藤博文の国際協調路線を継ぐべき陸奥宗光は、惜しくも2年後に病没した。