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列強の対日政策のリーダーシップをとるイギリスは、アジアで南進政策を進めるロシアへの対抗勢力として日本を重視するようになり、明治政府の悲願である不平等条約改正のチャンスが訪れた。松方正義内閣の外相青木周蔵が大津事件で引責辞任した後を継いで、伊藤博文内閣の外相となった陸奥宗光(元海援隊士)が交渉にあたり、遂に領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃を勝ち取り、日英通商航海条約に調印した。アメリカ・フランス・ロシアなど他の条約国とも同様の改正が行われ、1899年に同時施行された。不平等条約の改正(領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃)は、伊藤博文内閣の快挙であったが、外相に陸奥宗光を起用したことも大きかった。陸奥は、坂本龍馬の海援隊で鳴らした猛者だが、維新後は薩長藩閥に恨みを抱き、西南戦争時の土佐派による政府転覆計画に連座して5年の実刑を食らった過去があった。政治家にとっては致命的な瑕疵であり、さらに政府要人暗殺リストに陸奥自身が伊藤の名を書き加えたことも発覚した。しかし、伊藤は、「カミソリ陸奥」といわれた奇才に期待をかけ、経歴に不信感を表す明治天皇を説得し、遂に陸奥宗光外相を実現させて条約改正を託した。条約改正は明治政府発足以来の悲願で、鹿鳴館外交に失敗して政治的権威を落とした井上馨、玄洋社社員の爆裂弾襲撃で右脚を失った大隈重信、大津事件で更迭された青木周蔵と、外交責任者にも不幸をもたらし続けた大難題であった。陸奥は、日清戦争とその講和交渉においても切れ味を発揮し、次代を担う大政治家となるべきところであったが、惜しくも1897年に病没した。