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陸軍から分離発足した海軍は境界が曖昧で、海相の西郷従道さえ陸軍中将のままであり、上層部には海軍の素人が多かった。海相官房主事に任じられた山本権兵衛は人事と統帥部の分離独立を掲げ大胆な改革を断行、薩長藩閥を問わず96人もの将官佐官をリストラ(予備役編入)する一方で斎藤実(仙台)・加藤友三郎(広島)・岡田啓介(福井)ら海軍兵学校出身者を積極的に登用、海軍は山縣有朋の長州閥が牛耳る陸軍と異なりオープンな組織となった。なお、加治屋町の先輩東郷平八郎も整理リストに入っていたが山本権兵衛の一存で残された。急激な改革は軍人のみならず新聞の酷評を受け世論も反発、大ボスの山縣有朋が山本権兵衛退治に乗出したが、山本は「閣下」と煽てて篭絡し応援の井上馨らも理路整然と説伏せた。山場を乗切った山本権兵衛は、日清戦争準備の作戦会議で海軍輸送の重要性を説き統帥部(海軍軍令部)の独立に成功、終戦直後には対露開戦の不可避を予見しロシアの軍拡を上回る速度で軍艦を建造し10年以内に戦艦六隻・重巡洋艦六隻を整備するという「六六艦隊計画」に着手、西郷従道から海相を継ぎ戦争準備に邁進した。正に10年後に桂太郎内閣が対露開戦を決定すると、山本権兵衛海相は軍令部も掌握して作戦を指揮し連合艦隊に出撃命令を下した。連合艦隊司令長官は常備艦隊司令長官の日高壮之丞(薩摩)の順送りが筋だったが、日高の独断専行を嫌う山本権兵衛は命令遵守型の東郷平八郎への交代を強行、懸念を示す明治天皇には「東郷は運の良い男ですから」と奏上した。加治屋町の先輩で陸軍総司令官の大山巌は出征直前に山本権兵衛を訪ね内地で早期講和に尽くすよう依頼、奉天会戦・日本海海戦の勝利で日露戦争の帰趨が決すると山本海相は伊藤博文・井上馨・陸軍の児玉源太郎と共に桂太郎首相の無謀な継戦論を抑え日本の国益を護った。