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伊藤博文は、憲法問題に専念するため首相を辞して新設の枢密院議長となり、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎ら官僚を駆使しドイツ人顧問ロエスレルとモッセの助言を得ながら憲法草案を起草、枢密院で若干の修正を加えたのちに閣議を通した。大日本帝国憲法は、「神聖不可侵にして統治権を総攬する」天皇に絶対的君主権を与え、憲法自体も天皇から下された欽定憲法の形式をとった。天皇の下に帝国議会(立法)・内閣(行政)・裁判所(司法)を併置する三権分立制を採用し、「天皇大権」を輔弼する直属機関として統帥部(陸軍参謀本部・海軍軍令部)・枢密院(最高諮問機関)・内大臣(側近)・宮内大臣(皇室事務)を置いた。また、法令の規定外に薩長重鎮らが構成する元老院が設けられ(後に重臣会議に転化)、総理大臣をはじめ国務大臣の実質上の指名権を掌握し絶大な権力を握った。貴族院(選挙制)と衆議院(勅撰および互選制)からなる帝国議会の権限は、天皇の立法行為に対する「協賛権」に制限されたが、予算案・法案の成立には両院の同意が必要とされたため立法府の行政府に対する牽制機能は十分に在り、藩閥政治から政党政治への移行を促す要因となった。が、伊藤博文が軍部を握る山縣有朋らと妥協した結果、軍事権(統帥権)を三権から分離し絶対君主たる天皇の専権事項としたため文民統治の機能を欠き、天皇および側近のチェック・アンド・バランスが崩れると軍部の暴走を許すという構造的欠陥を内包しており、実際に軍部は統帥権を振りかざして軍国主義化に邁進し軍部大臣現役武官制により内閣(行政権)をも脅かす存在となった。