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岩崎弥之助は、兄の岩崎弥太郎が興した海運業を日本郵船に引渡したが、膨大な遺産を元手に鉱山買収と造船業を核に多角的経営を成功させ短期間で三菱財閥の礎を築いた敏腕経営者である。出発時の事業は銅山(吉岡銅山)・水道(千川水道会社)・炭鉱(高島炭鉱)・造船(長崎造船所)・銀行(第百十九銀行)の5部門で、「三菱社」を設立した岩崎弥之助は唯一まともな吉岡銅山から手を付けた。東大出身者を鉱山長に迎え最新の採掘・精錬法と設備の導入で吉岡銅山の産出量は倍増、並行して短期集中的に鉱山買収を推進し、興共・瀬戸・樫村、尾去沢・大葛・細地・槙峰・多田・木浦・佐渡・生野を獲得した三菱は日本屈指の金銀銅メーカーへ躍進した。岩崎弥之助は炭鉱にも注力し、最新技術で高島炭鉱を優良化させ、新入・鯰田・碓井・佐与・上山田・方城・古賀山・端島・油戸を相次いで買収、三菱の国内産出シェアは1割に達した。さらに岩崎弥之助は製造業にも手を広げ、政府のお荷物だった長崎造船所を45万9千円で譲受けると、外国人技師と大卒技術者を雇用し、多数の社員をイギリスへ派遣して本場の造船技術を習得させ、日本一の技術力を得て6000トン級巨船の建造に成功した(日本郵船「常陸丸」)。三菱は新たに神戸造船所を開設し、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と続いた空前の造船ブームを満喫した。岩崎弥之助は、海運業特化で失敗した岩崎弥太郎の轍を踏まぬよう主力の鉱業・造船のほか倉庫・保険・銀行・不動産・農場(小岩井農場)など多種多様な事業を展開、日本郵船も三菱傘下に取戻した。「丸の内の大地主」三菱地所の創業者もまた岩崎弥之助であり、丸の内一帯10万余坪の土地を128万円の巨費を投じて陸軍省から買取り、コンドル設計の「三菱第一号館」を皮切りに近代的オフィスビルを次々と建設し「日本初のオフィス街」を現出させた。「三菱合資会社」への改組を機に岩崎弥太郎の遺言に従い岩崎久弥に三菱3代目を禅譲した岩崎弥之助は、三菱の政治的基盤を固めるため各派閥への全方位外交を展開、松方正義と大隈重信を仲立ちして「松隈内閣」を成立させ紐帯として日銀総裁に就き、大隈の東京専門学校を援助し早稲田大学へ昇格させた。