日本史年表へ戻る
岩崎弥太郎の憤死により三菱2代目を継いだ弟の岩崎弥之助は、三菱潰しの首謀者である西郷従道農商務卿の和解勧告を受入れ海運業からの撤退を決断、1885年共同運輸会社が郵便汽船三菱会社を吸収併合し日本郵船会社が発足した。資本金11百万円のうち三菱側は5百万円を保有したが岩崎家の経営参画は認められず、社長には共同運輸社長の森岡昌純が就き理事4人のうち三菱側は荘田平五郎のみであった。三菱は海運分野に関する全ての資産と権益および従業員約2千2百人のうち1千5百人を日本郵船へ移譲、本業を失うも三菱再興を期す岩崎弥之助は残された鉱業・造船業などを整理し「三菱社」を設立したが従う幹部(管事)は川田小一郎(岩崎弥太郎の腹心)のみであった。が、日本郵船では結束の固い三菱派閥が次第に影響力を増し理事を独占するに至り、薩長藩閥と和解した岩崎弥之助と岩崎久弥(弥太郎の長男)が男爵に叙された翌年の1894年、三菱出身の吉川泰二郎が社長に就任し日本郵船は事実上三菱の傘下に入った。