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自由党総理の板垣退助は、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く喧伝された(台詞そのものは新聞記者の脚色とされる)。なお、負傷した板垣退助の診察にあたったのは、当時医師をしていた後藤新平だった。板垣は後藤の政治的才能を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったというが、後に後藤は内務官僚(医系技官)として政府に出仕すると、児玉源太郎にスカウトされ台湾総督府の実務を差配し植民地経営に成功、満鉄総裁に就任するなど大物官僚政治家となった。