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開拓使長官の黒田清隆が、開拓使に属する事業や施設を不当な廉価で薩摩系政商の五代友厚らへ払下げようとしていることが発覚(約1400万円を投じた官有事業が約39万円と「簡保の宿」より酷い安値、しかも支払い条件は無利息30年割賦)、民権派新聞の糾弾で払下げは中断され藩閥専制への批判が沸騰した。「維新の三傑」没後、佐賀藩出身の大隈重信が主席参議に推されたが薩長平等の建前を保つため担がれたに過ぎず政権基盤は脆弱だった。大隈重信は伊藤博文・井上馨と親密で長州閥を後ろ盾に出世の階段を上ってきたが国会開設問題で暴走し信用を喪失、その矢先に開拓使官有物払下げ事件が起り福澤諭吉ら民権派に煽てられた大隈は黒田清隆を非難したため情報リークを疑われ薩摩閥からも見放された。黒田清隆・西郷従道は即座に報復へ動き伊藤博文・井上馨と提携して明治天皇臨席の緊急閣議を開催、大隈重信の参議職を罷免し大隈派の官僚群を追放するクーデターを決行した(明治十四年の政変)。これにより完全な薩長藩閥政府が現出したが、首班の伊藤博文は薩長の「超然主義」の限界を悟り自由民権運動との協調を図るべく官有物払下げの中止を発表したうえ「国会開設の詔」で憲法制定および10年以内の国会開設を国民に約束、民権派は沸立ち板垣退助は自由党を結成し、下野した大隈重信は福澤諭吉・慶應義塾派が結成した立憲改進党の党首に担がれた。黒田清隆・西郷従道ら薩長閥の矛先は大隈重信の資金源である岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社へ向けられた。