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大久保利通は、大蔵省と工部省から殖産興業部門を分離し、司法省から警保寮(警察)も巻き取って、絶大な権限を有する内務省を設置、自ら初代内務卿となり辣腕を振るった。西郷隆盛ら征韓派が一掃され木戸孝允も病気で働けない状況のなか大久保は独裁体制を確立、参議の伊藤博文と大隈重信が側近として大久保を支えた。大久保政府の主眼は内地優先論に基づく殖産興業にあり、鉄道網の整備を進め、官営模範工場や農事試験場を設立して軽工業や農業の近代化を推進した。また岩崎弥太郎の三菱を手厚く保護し、国内海運業の育成と外国勢力の排除に努めた。外交面では、征韓論を抑えたものの、薩摩藩の不平士族のガス抜きのため台湾出兵を断行し、大久保自ら清国に乗込んで有利な講和条約をまとめた。征韓論争に敗れ帰郷した要人を核に各地で不平士族が蜂起し佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き日本史上最悪の内戦となった西南戦争が勃発したが、大久保は怯まず断固たる姿勢で対応し新造の鎮台兵を動員して速やかに各個鎮圧し国内の治安を回復した。大久保利通は最も現実的な政治家だが、明確な長期ビジョンと意志を持っていた。大久保は「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り発展を待つ時期だ。」と語り、岩倉具視への手紙には「国家創業の折には、難事は常に起るものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」と記した。福地源一郎は大久保に「北洋の氷塊」の渾名を奉り「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物」と評している。