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明治政府は、南進するロシアに対する国防要請の高まりを受け、また天然資源が豊富で農地転用可能な原野が多い北海道を国力増強の切り札と考え、蝦夷ヶ島を北海道へ改称し開墾推進のため開拓使を設置した。蝦夷開拓総督・初代開拓使長官に任じられた佐賀藩主鍋島直正は、島義勇を開拓御用掛に任じ佐賀藩は率先して北海道へ移住者を送込んだが、現地へ赴任することなく2ヵ月後に大納言に転任、開拓使長官を継いだお飾りの東久世通禧(公家)のもと次官の黒田清隆(薩摩)が実務を差配した。札幌市街の基礎を作った島義勇は「北海道開拓の父」と呼ばれ札幌市役所と北海道神宮に銅像が建てられた。政府は苦しい財政事情のなか巨費を投入、札幌農学校(北海道大学の前身)を設置し新たな農業技術の導入やインフラ整備を推進した。当初は北海道を諸藩に分領し開拓を委託する方針であったが応募は佐賀藩など少数に留まり、政府直轄の「屯田兵」方式へ路線変更した。農家1戸あたり約5ヘクタールの提供を約束しパンフレット頒布などで入植を奨励した結果、内地で失職した士族を中心に自費入植者が相次ぎ1870年に6618人だった北海道の人口は急増し1912年には173万9099人となった。開拓使は、黒田清隆の「官有物払下げ事件」で廃止され、機能は1886年に新設された北海道庁へ引継がれた。