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明治の大実業家となった渋沢栄一は、旧主徳川慶喜の名誉挽回のため、25回ものインタビューを行い「昔夢会筆記」を編纂した。これによると徳川慶喜は・・・小御所会議で徳川宗家の辞官納地が決定された後、会津・桑名藩兵や新撰組が激昂し抑え難くなったので状況緩和のため京都から大阪へ移った。朝廷は徳川慶喜に大兵を伴わず上京するよう命じたが、大阪城内の会津兵らはこれを拒絶し「君側の奸を払う」と称し京都へ出撃、薩長軍と遭遇し鳥羽伏見の戦いが始まった。この間、徳川慶喜は老中の板倉勝静に「西郷や大久保のような人物もいないのに戦っても必勝期しがたい。いたずらに朝敵の汚名を着るのはいやだ」と言い、病気と偽って大阪城内に逼塞していた。鳥羽伏見の敗報が届くと大阪城内は徹底抗戦の気分に満ちたが、「錦旗」相手の戦闘を避けたい徳川慶喜は「即刻出馬」と偽り火種である松平容保・松平定敬兄弟を連れ出し共に大阪城を脱出、天満から天保山まで小船で下り米軍艦イロコイ号で一夜を過ごし幕府軍艦開陽丸で江戸へ戻ったという。