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大倉喜八郎は、維新の動乱期に武器の輸入販売で台頭し、陸軍長州閥に食込み大倉財閥を築いた立志伝中の企業家である。越後新発田から17歳で単身江戸へ上った大倉喜八郎は、幕末の戦乱に乗じ大倉銃砲店を開業、鳥羽伏見戦が起ると官軍に取入って御用達となり、上野彰義隊に殺されかかるも啖呵でかわし、奥州征討軍の輜重を担い大儲けした。戊辰戦争後、大倉喜八郎は貿易視察のため欧米を巡遊し岩倉使節団の大久保利通や伊藤博文と交流、帰国すると大倉組商会を設立し、日本商社の海外支店第一号となるロンドン支店を開設、インド・朝鮮貿易にも進出した。山縣有朋・桂太郎・田中義一ら陸軍長州閥に大胆不敵さを買われた大倉喜八郎は、台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争で軍隊輜重を任され武器販売や兵站輸送で巨富を積んだ。「冒険商人」大倉喜八郎は自ら命懸けの戦時輸送に乗込み、多くの部下を喪い大嵐で遭難もしたが度重なる死線を潜り抜けた。戦乱の度に焼け太る大倉喜八郎は世間から「死の商人」「政商」「グロテスクな鯰」と呼ばれたが、井上馨・渋沢栄一・安田善次郎ら財界首脳の支援も得て、明治末期には軍需関連・土木建築・鉱工業の三本柱で「大倉財閥」を形成、自ら50以上の会社設立に関与し傘下企業は200社へ膨張した。が、大倉商業学校(現東京経済大学)の創設など経済人養成に尽力した大倉喜八郎の意に反し、大倉財閥に人材は育たず、嫡子の大倉喜七郎は道楽者となった。日露戦争後、大倉喜八郎は陸軍長州閥に歩調を合わせ中国大陸進出を加速、喜八郎没後も大倉財閥は多種多様な大陸事業に巨費を投じたが、成功したのは本渓湖煤鉄公司のみだった。満州の重工業開発を牽引した鮎川義介は逸早く全面撤退し日産・日立を残したが、逃げ遅れた大倉財閥は注込んだ資産を全て中国に接収され、2代目体制は財閥解体の嵐に翻弄され大倉財閥は壊滅した。銀行を核に四大財閥の再編が進むなか、銀行部門の無い大倉財閥では大成建設・帝国ホテル・ホテルオークラ・日清オイリオグループ・帝国繊維・日油・サッポロビールなどの紐帯は復活せず、辛うじて存続した中核の大倉商事も1998年に倒産し大倉財閥は完全に消滅ぼした。