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長州藩庁は反乱軍鎮圧のため正規藩兵の選鋒隊を差し向けた。高杉晋作の反乱が鎮圧されれば諸隊の解散も確実な情勢となり、奇兵隊の山縣有朋ら諸隊長はようやく重い腰を上げ高杉の檄文に応えた。諸隊は恭順を偽って絵堂の政府軍を不意撃ちで破り、慎重過ぎる山縣有朋の指揮で戦線は膠着したが、高杉晋作率いる遊撃隊が下関から合流し根拠地の赤村を急襲すると政府軍は総崩れとなった。高杉晋作は萩まで攻込む腹であったが、またも山縣有朋が慎重論を唱え已む無く休戦協定を結んだ。高杉晋作は藩庁から椋梨藤太ら俗論党幹部を一掃し正義派が政権を奪回した。長州維新の大立者である高杉晋作は、「艱難は共にできるが富貴は共にできない」と言って藩政に参加せず、禁門の変後に失踪中の木戸孝允を呼戻し指導者に据えた。高杉晋作は、念願の西欧視察を実行に移すべく藩庁の許可を得て1千両をもらい伊藤博文を伴い長崎へ赴いたが、グラバーから第二次長州征討が近いと聞き急ぎ長州へ戻った。なお、高杉晋作が藩庁から分捕った1千両は行方知れずとなり、高杉らが丸山遊廓で蕩尽したとも、別の藩費留学生の渡航費用に充てたともいわれる。