日本史年表へ戻る
馬関海峡の封鎖を実力で排除し攘夷に固執する長州を目覚めさせるべく、英仏蘭米四カ国の軍艦17隻が下関を攻撃、猛烈な艦砲射撃と陸兵2千人を投入して下関と彦島の砲台を破壊し占拠した。伊藤博文と井上馨は留学中のイギリスで四国連合艦隊による下関攻撃が近いことを知り開戦を止めるべく急ぎ帰国したが頑迷な過激攘夷派に阻まれた。かくして長州藩は馬関戦争に完敗し、亡命事件を起して謹慎中だった高杉晋作を急遽召還して講和交渉の全権に任じた(蘭学者の大村益次郎とイギリス帰りの伊藤博文が高杉を補佐)。連合国代表のキューバ提督は、下関海峡の自由通航と日用品購入を認めること、今後一切砲台を築かないこと、および賠償金300万ドルを要求した。交渉の争点は長州藩年収の十数倍にもなる賠償金の支払いであったが、高杉晋作は強硬な姿勢で臨み、外国船打払いは幕府の命令で行ったものであるとして戦争の責任を幕府に押付け、認めさせた。通訳として交渉に参加した伊藤博文は、この他に彦島の割譲を求められたが、高杉晋作が頑としてはねつけ、危うく難を免れたと述懐している。この後、幕府は、長州藩が勝手に諸外国に下関開港を認めることを恐れ、賠償金の支払いに応じた。