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久坂玄瑞・木戸孝允と提携し長州藩の「破約攘夷」運動を朝廷で支えた三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公卿7人は、八月十八日政変で長州藩へ亡命し周防三田尻に留め置かれた(七卿落ち)。錦小路頼徳は翌年病没し、澤宣嘉は河上弥市・平野国臣に担出され生野の変を起すも軍資金を盗んで敵前逃亡した。七卿のもとへは京都を追われた尊攘派浪士が参集、長州藩から宿舎「招賢閣」を提供された浪士群は、六時起床で皇居を礼拝し夕食まで文武講習のカリキュラムをこなすという規則正しい生活を送りつつ、活発に同志を招致し志士活動を展開したため招賢閣は全国尊攘派の参謀本部の様相を呈した。大物志士の真木和泉・宮部鼎蔵と土佐脱藩浪士を率いる中岡慎太郎・土方久元らが「会議員」を構成して指揮を執り、長州藩からは前原一誠と佐々木男也が世話掛として派遣された。長州藩は招賢閣浪士を中核に脱藩浪士の混成部隊「忠勇隊」を創設し長州藩諸隊に組込み、忠勇隊は禁門の変に従軍し奮戦するも首領の真木和泉が戦死、後継首領の長谷川鉄之助(越後浪士)が脱退したため真木外記(和泉の弟)と中岡慎太郎が総督となった。忠勇隊は馬関戦争・第一次長州征討でも勇敢に戦ったが長州藩の恭順に伴い解散となった。が、中岡慎太郎ら土佐浪士は遊撃隊(浪士隊)に合流し五卿が移された下関長府の功山寺に参集、中岡率いる遊撃隊60人は高杉晋作の功山寺挙兵の中核部隊となり(他に従ったのは伊藤博文の力士隊30人のみ)長州維新の立役者となった。中岡慎太郎は、薩摩系土佐浪士の坂本龍馬と連携して薩長同盟に奔走し、遅れて中央政局に乗出した土佐藩に招聘され京都で陸援隊を結成、長州系の中岡は土佐藩の後藤象二郎・坂本龍馬が主導した大政奉還に反対し討幕の刃を砥いだが、京都近江屋で見廻組に襲われ坂本と共に非業の死を遂げた。