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長州藩は攘夷の急先鋒で下関事件の窮地にあったが、開明的な木戸孝允・大村益次郎は井上馨のイギリス留学申請を許可し、藩主毛利敬親は600両の大金を下付した。当初は井上馨・山尾庸三・野村弥吉の3人の予定だったが、遠藤謹助と、井上の工作により伊藤博文にも外遊の許可が下りた。「長州ファイブ」は上海で二組に分れ、伊藤博文と井上馨は300トン級商船「ペガサス号」でイギリスへ向った。船長に渡航目的を聞かれた井上馨は「ネービー(navy)」を誤まって「ネービーゲーション(navigation)」と回答、正規の船賃支払いにも関わらず「航海術」の修行ならということで水夫扱いにされ、二人は本物の水夫同様に朝から晩までこき使われ、食事はビスケットと干し肉のみ、命辛々ロンドンに辿り着いた。西洋文明に圧倒された伊藤博文と井上馨は忽ち尊攘派から開国派へ転じ英語学習に着手したが、その矢先に『ロンドン・タイムズ』で四国連合艦隊の長州攻撃計画を知り西洋列強との開戦を阻止すべく急遽帰国、二人の外遊は僅か半年で終わった。明治維新後、英語を解す「長州ファイブ」は重用され、伊藤博文と井上馨は高杉晋作の「長州維新」を支えたのち長州閥首領に栄達、留まって工学を修めた山尾庸三は工部卿となり工学寮(東大工学部の前身)を創設、野村弥吉は「日本の鉄道の父」と称された鉄道庁長官、遠藤謹助はお雇い外国人を追出し造幣局長となった。