日本史年表へ戻る
有馬新七ら薩摩藩急進派が真木和泉らと謀り、関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸の襲撃を企てた。これを知った島津久光は大久保利通を派遣し鎮撫を試みたが失敗、彼らの同志である尊攘派藩士から武術に優れた大山綱良・奈良原繁らを遣わし藩邸に呼び戻して自ら説得しようとしたが、拒否したため斬合いとなった。有馬ら6名が死亡し負傷した2名は後日切腹に処された。寺田屋には他にも大山巌・西郷従道・篠原国幹ら多数の尊攘派志士がいたが、大山綱良らが刀を捨てて飛込み必死の説得を行ったため投降した。寺田屋騒動は同志相打つ悲劇であったが、島津久光は跳ね返り藩士を容赦無く粛清、攘夷の過激化を嫌う孝明天皇の心象をよくしたことが後の八月十八日政変の成功に寄与したとも考えられる。寺田屋騒動に関与した他藩士5人は朝命で薩摩藩へ預けられたが(浪士の真木和泉は京都で一時幽閉され長州藩へ転じる)、怒りの収まらない久光は鹿児島へ送る船上で寺田屋同志の薩摩藩士に5人を斬らせ死骸を海へ捨てさせた。