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木戸孝允は長井雅楽の暗殺を主張する高杉晋作を持余し外遊を餌に中央政局から追払った。幕府の第一回遣欧使節の選に漏れた高杉晋作は行先が上海となり出国を逡巡したが、長崎で出航を待つ100余日の間に丸山遊廓で豪遊し、英仏人から海外情勢や外国通商の実情を探り、アメリカの四民平等社会、イギリスが海軍力を背景に世界最強国となったこと、日本にとってロシアが最大の脅威かも知れない、といった情報を長州藩庁へ報告した。高杉晋作が随行を許された幕府使節の上海渡航は、長崎商人らが出張貿易のため長崎奉行高橋美作守に賄賂を送り実現したもので、同行者には薩摩藩の五代友厚もいた。上海で植民地人民の悲惨な状況を目の当たりにした高杉晋作は、圧倒的な西洋列強の武力と日本の危機そして侵略を防ぐための洋式軍備の必要性を再確認、2ヶ月の滞在期間中に列強による清国侵略の経緯と実情を見聞し最新鋭のオランダ船やイギリス砲台とアームストロング砲を見学した。オランダ館でピストルと世界地図を購入したが、ピストルは後に坂本龍馬へ贈呈した。外遊中に長州藩は「破約攘夷」へ大転換し木戸孝允や久坂玄瑞は中央政局の寵児となり、高杉晋作は「防長割拠論」を説くが誰も耳を貸さず頭に来て脱藩騒ぎを起した。長州藩世子毛利定広への上書に曰く「(公武周旋は)幕府の罪を糾明し、幕府と一戦を交えなければ達成できるものではありません。・・・防長二国四民のこらず今日必死の時節と決心すれば、公卿のもとへ出入りすることも、越前春嶽や一橋公へ議論することも、幕府小吏の穴をつっつくことも、水戸薩摩藩の有志と謀ることも、わが藩の俗吏が京都や江戸で工作のため散財することも、御両殿さま京都に御滞在のことも、みなわけもわからぬ無益なことでありましょう。・・・決心がつかないのに勤皇をとなえ、右のような虚動をするのは、功名勤皇であって真勤皇とは申せますまい」。高杉晋作は、「決心」を天下に示すべく久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文らと神奈川外人襲撃を企てイギリス公使館焼き討ちを決行、賀茂社に参詣する将軍徳川家茂の行列に「いよ、征夷大将軍!」と叫んだが、藩の方針は変わらず10年の暇をもらい剃髪し東行と号した。