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平野国臣が著した『尊攘英断録』の骨子は「もはや今日の時局では公武合体などは俗論である。幕府は打倒すべきである。それには薩摩藩のような大藩が密勅を請うて義兵を挙げ、大阪城を抜き、天皇を奉じて諸藩に呼びかけて連合勢力をつくり、幕府に大権を奉還せよと迫り、もし聴かずんば東征して討て。かくて挙国一致の体制は成り、国難を乗り切ることが出来るのだ」・・・後にこの通りのことが起り王政復古は達成されるのだが、当時の薩摩藩は雄藩連合・公武合体を推進していたため大久保利通は小遣いを与えて体よく平野国臣を追い返した。しかし、有馬新七ら精忠組急進派の賛同で力を得た平野が京都に戻って吹聴したため「薩摩藩の国父久光が討幕の志を抱いて上洛する」という噂が広まり、この加熱ムードが寺田屋騒動を巻起した。